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美色【モテイロ】コーディネーター★木村碧です
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45歳の初産 ゴールの見えない旅路
~ピンク色を身に纏い、挑戦し続けた7年間の妊活記録~
第 1回 はじめに http://ameblo.jp/kimuramidori/entry-12195272584.html
第 2回 治療へのきっかけ http://ameblo.jp/kimuramidori/entry-12195536398.html
第 3回 初めての不妊外来 無知なワタシ http://ameblo.jp/kimuramidori/entry-12196520917.html
第 4回 とまどい・約束ができない・・・ http://ameblo.jp/kimuramidori/entry-12197809653.html
第 5回 二人では越えられない壁 http://ameblo.jp/kimuramidori/entry-12199078593.html
第 6回 番外編 試したこと① 不妊鍼治療 http://ameblo.jp/kimuramidori/entry-12200035195.html
第 7回 そして 体外受精へ http://ameblo.jp/kimuramidori/entry-12200655732.html
第 8回 いのちのタイムリミット http://ameblo.jp/kimuramidori/theme-10082131183.html
今回は 第9回 『桜は咲き続ける』 です
さて、前回で、私は、待望の Aランクの卵 正確には 胚盤胞を作ることに成功しました。
当然、期待が高まります。
スムーズに移植も済み、A病院の医師の指示に従って、一定期間を安静に過ごしました。
自分にとって楽しいことをしたり、リラックスした時間を持つのも良いことなので、カラーのレッスンは続けていました。
ですが、忘れもしないあの日。
私は レッスンを受けに横浜におりました。
レッスンが終わり、丁度帰宅をする頃でした。
突然の揺れに見舞われました。
3月11日。
東日本大震災。
帰宅難民になってしまいました。
暖かくなってきたものの、まだまだ 寒い時期。
妊娠の可能性があったので、必死に暖かい場所を探して彷徨いました。
なぜこんな大事な時期に遠方まで来てしまったのだろうと、とても後悔しました。
被災なさった方々、お亡くなりになられた方々に比べたら、私の事など、取るにならないことなのではありますが、色んなことが頭を駆け巡りました。
辿り着いたのは某ホテルの5階。
宴会場を開放くださり、とても暖かくて涙がでました。
幸い、カイロを持っていたので、体を温めて、しばし休息がとれました。
同じような境遇の女性の方々がいらっしゃり、怖かったので、互いのことを話しながら励ましあいました。
私は、丁度、カラーの道具などを持っていましたので、そのお話をしました。
特に、ピンク色は、リラックスする効果のある色なので、警報が鳴り響く中、少し緊張感がほぐれたように思いました。
周囲の方々に親切にしていただき、私は無事に一夜を過ごして、電車を何回も乗継ながら、翌日帰宅することができました。
帰ると、ほとんど寝ていなかった様子の主人が涙ながらに抱きしめてくれました。
いつも冷静で頼れる彼のこんな姿は初めてで、とても驚きました。
と、同時に、やっぱり、この人の子供が欲しい。そう思いました。
それまでは、もちろん、その気持ちがあったからこそ治療をしていたのですが、父の病気が分かってからは、父に孫の顔を見せてやりたいと思い、がむしゃらに治療をし続けていました。
さて・・・残念ながら、翌日に生理が来てしまいました。
つまり、もともと妊娠はしていなかったのですがこのことから、遠方に出かけることが怖くなりました。
3月はとても鬱々とした日々を過ごしました。
それでも、あのような恐ろしいい震災があっても、桜は咲きますよね。
少しずつ、誰かと一緒であれば外にでることができるようになりました。
このころ、実家の父は安定していました。
帰省もしていたのですが、長期に滞在することはありませんでした。
というのも、治療に専念して欲しいと言われたからです。
実は、その後、再度の移植を試みたのですが、結果はついてきませんでした。
この頃の、過去のブログを読み返すと・・・
本当はココロが折れそうな時期だったのに、
自分を奮い立たせるように、わざと元気に書いてあります。
5月が過ぎ、6月になり、父の容体はかなり悪くなってきました。
治療をいったん止め、時間があるときは帰省するようにしていました。
私は、カラーの講師をめざしていることなどを父に話しました。
父は教員でしたので、いわゆる学校の先生ではなくとも、「教育」という分野に辿り着いた私のことを嬉しそうにしてくれました。
もう、父の存命中に妊娠報告はできないかもしれない。
しかし、父と同じように、人に何かを伝えていくことが、父の想いを紡いでいく方法なのではないかと、前向きに考えるようにしました。
それでも、父が亡くなった時は本当に悲しくて、親孝行が何一つできなかったと情けなくて、年甲斐もなく、号泣してしまいました。
父を見送り、
しばらくして、
私は治療のことをもう一度考えなおしました。
前述にもありましたように、A病院は、主人が見つけてきたところでした。
その病院も素晴らしい医師、看護師の皆さんがいらっしゃったのですが、やや遠方であったり、不妊治療特化型ではなく、いつも時間がかかりすぎるなど、月に何度も通院しなければならない身からすると、負担も大きいものでした。
A病院にはよくしていただいた。感謝もしている。
けれど、負担を感じての治療はよくないのではないか。
自分も限られたタイムリミットの中、私にとって心地よい治療を受けたい。
そこで、
勇気を持って
転院することにしたのです。
ここまでご覧いただきまして、ありがとうございました<m(__)m>
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