以前、週刊文春さんのインタビューを受けた時「自分は光瀬龍さんの遺伝子を継いでいる」と語りました。
もともと自分は天邪鬼なのですが、小説においても天邪鬼的姿勢になったのは光瀬龍さんの影響が大きいと思います。
光瀬さんは、朝日カルチャースクールの「大衆文学の書き方」という講座を持っておられて、西新宿の高層ビルにある教室に通うようになったのがはじめての出会いです。
光瀬さんを今では知らない人も増えたのではないかと思いますが、おもにSFの世界で活躍した作家で、特にジュブナイル小説の第一人者です。
わたしはちょうど社会人になりたてだったのですが、ぼんやりと小説家になれたらいいな、と思うだけでなにひとつ行動に移せていないころでした。
通っている生徒はほとんどの人が自分の作品を持ち寄っていたのですが、わたしには書き上げた作品どころか、書き始めた作品もありません。
漠然と村上春樹氏や宮本輝氏のような純文学を書きたいと思っていただけです。
しかし、光瀬さんは純文学を為政者が「読者の目を内省的なものに向かわせ、社会的な事象を見ないようにさせるためのもの」と規定し、井伏鱒二氏や志賀直哉氏を例に挙げ、痛烈に批判しました。
間抜けなことに、この講義を聞くようになってからはじめてわたしは大衆小説(エンターテインメント小説)というジャンルに目を向けることになったのです。
また、時代小説では山本周五郎氏をやり玉に挙げ「山本周五郎により江戸時代に関して間違ったイメージを持つ人が多くなった。江戸時代は決してこんな情緒的な時代ではなかった。」とこれまた鋭く批判しました。
自分はこのような教えの影響を色濃く受け継いだように思います。
光瀬さんの小説作法としては、「第一にプロットありき」です。
作品ではなく、プロットの提出を求められました。
講義の最初のほうで光瀬さんがアイデア集を下さったのですが、そのうちのひとつは今でもはっきりと覚えています。
朝、トイレのドアを開けるともうひとりの自分が座っていた(ドッペルゲンガー)。
というものです。
光瀬さんにはj純文学も時代小説も、時代に迎合するものと映っていたように思います。
自分はこの姿勢に強い影響を受けたものの、この後、すぐに書けるようになったわけではなく、暗黒時代がずっと続くことになります。


























