食事の場面があるとするだろう。いまの役者は本人の顔で食べている。その役で食べてないよ。

役者の基本がなってないね。役者の基本はね、「ように」とか「らしく」だよ。だから、同じメシを食うんでもさ、頑固親父はそれらしく、結婚前の娘はそのように食べなきゃな。役者なんだからさ。

 

(三木のり平・俳優、コメディアン、演出家。桃屋のコマーシャルでは自ら図案を描き、多彩なところをみせた)

 

 

小説家の井上光晴は、小説について「会話風会話をやってはいけない。会話はあくまでも素朴な自然なやりとりなんだから。手打ち風ではなく、手打ちそのもののうどんでなければおいしくない」と言いいました。

 

一読するとその通りだと思ったのですが、日常の会話をありのままに書いたものが小説なのでしょうか。

「食べる」という誰もが日常で行っている作業ですら、役者は「食べる演技」を稽古する必要があります。

小説も日ごろわたしたちが話している言葉をそのまま書くのではなく、読者の方が読みやすいような言葉にする工夫が必要だと思っています。

 

三木のり平は、

 

「せりふというものはね、せりふらしく言ったらダメなんだ。まず台本を読んだらね、自分でひとつの性格をつくって、言ってみるんだ。そうするとね、同じせりふでも何通りでも言えるんだよな。そのなかから、これがいいっていういい方をパッと掴んで、稽古でやってみる」

 

とも言っています。

 

リアリティと分かりやすさ、あるいは面白さというのは相反するときがありますが、リアリティさを追求するあまり、エンターテイメント性が失われれしまうのは本末転倒ではないでしょうか。

三木のり平は、食事のときにリアリティを出すために、本物の食事を出すのは馬鹿げている、とも言っていました。

確かに、人を殺す演技の際に、本当に人を殺していたら演技になりません。

 

小説の会話については、過去のブログにも書きました。

興味がおありでしたら、下記のブログを参照願います。

 

枯れたブルースを聴いていた