井上光晴氏は「小説の書き方」の中で書いている。


本屋の店頭に山積されている推理小説や官能小説の大半が読むに耐えないのは、人間の声が単なる客引きの台詞にしかきこえないからでしょう。


いきなりハードルが高くなった。

次に井上氏は書いている。


中学時代の同級生に久し振りに会って、「ああ、そういえばあなた、調布三中時代の同級生ね」とはいわないでしょう。「あらっ、山田さんじゃないの」とはいうけれども、「あなた、きっとそうね。二十年前に長崎の県女でいっしょに通っていた花子さんね」とはいわない。

会話風会話をやってはいけない。会話はあくまでも素朴な自然なやりとりなんだから。手打ち風ではなく、手打ちそのもののうどんでなければおいしくない。

井上光晴「小説の書き方」新潮新書


全くその通りだ。

実際、私も同じように思っていたときもある。

けれど、少し違和感を感じるようになった。

小説の中の会話は、日常会話とは異なる。


一方で、アメリカのハードボイルド小説。

ロバート・B・パーカーの代表シリーズにスペンサーという主人公がいる。

そのスペンサーに女性がボディガードの依頼に来るシーン。


「そうです、わたしについて。わたしにどうしてもらいたいのですか?」

「ここでわたしたちといっしょにいてもらいたいの」

「困ったな。今日、同じことを頼んだ美女はあなたで五人目だ」

ロバート・B・パーカー「初秋」早川書房


実際にこんな会話をする人間はいない。

会話風会話だ。

しかし、読者の支持を得た。

日本の小説でもあまりにもハードボイルド風の会話が増え過ぎて、淘汰されてしまったが、とにかくこんな言いまわしが多かった。


時代は多様化している。

手打ちうどんの店が「手打ちうどん風」の店よりも偉いとは限らないし、売れるとも限らない。

ふと思い出したのはフルオートのラーメン屋だ。

工場のようにラインがあり、麺を投入するところから、茹でて、丼に入れるまでフルオートだった。

衛生的で、人件費を節約できるので、原価の掛かった美味しいラーメンを安価で提供できるという触れ込みだった。

当初は流行っていたが、その後は、廃れたと聞く。

ラーメンも、うどんも本来は、手打ちである。

手打ち風でもいいが、客はある程度、店に「プロ」を求める。

小説の中の会話も、会話風までは許されるが、あまりにも現実味を失うと、滑りまくるのではないだろうか。




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