あなたに平安がありますように。

あなたが救われますように。

イエス様のみこころのとおりになりますように。





イエスが語っておられた時、あるパリサイ人が、自分の家で食事をしていただきたいと申し出たので、はいって食卓につかれた。

ところが、食前にまず洗うことをなさらなかったのを見て、そのパリサイ人が不思議に思った。

そこで主は彼に言われた、
「いったい、あなたがたパリサイ人は、杯や盆の外側をきよめるが、あなたがたの内側は貪欲と邪悪とで満ちている。

愚かな者たちよ、外側を造ったかたは、また内側も造られたではないか。

ただ、内側にあるものをきよめなさい。
そうすれば、いっさいがあなたがたにとって、清いものとなる。

しかし、あなた方パリサイ人は、わざわいである。
はっか、うん香、あらゆる野菜などの十分の一を宮に納めておりながら、義と神に対する愛とをなおざりにしている。
それもなおざりにはできないが、これは行わねばならない。

あなたがたパリサイ人は、わざわいである。
会堂の上席や広場での敬礼を好んでいる。

あなたがたは、わざわいである。
人目につかない墓のようなものである。
その上を歩いても人々は気づかないでいる」。

ひとりの律法学者がイエスに答えて言った、
「先生、そんなことを言われるのは、わたしたちまでも侮辱することです」。

そこで言われた、
「あなたがた律法学者も、わざわいである。
負い切れない重荷を人に負わせながら、自分ではその荷に指一本でも触れようとしない。

あなたがたは、わざわいである。
預言者たちの碑を建てるが、しかし彼らを殺したのは、あなたがたの先祖であったのだ。

だから、あなたがたは、自分の先祖のしわざに同意する証人なのだ。
先祖が彼らを殺し、あなたがたがその碑を建てるのだから。

それゆえに、
『神の知恵』
も言っている、
『わたしは預言者と使徒とを彼らにつかわすが、彼らはそのうちのある者を殺したり、迫害したりするであろう』。

それで、アベルの血から祭壇と神殿との間で殺されたザカリヤの血に至るまで、世の初めから流されてきたすべての預言者の血について、この時代がその責任を問われる。

そうだ、あなたがたに言っておく、この時代がその責任を問われるであろう。

あなたがた律法学者は、わざわいである。
知識のかぎを取りあげて、自分がはいらないばかりか、はいろうとする人たちを妨げてきた」。

イエスがそこを出て行かれると、律法学者やパリサイ人は、激しく詰め寄り、いろいろな事を問いかけて、

イエスの口から何か言いがかりを得ようと、ねらいはじめた。













外側を綺麗にしても、内側は汚いままです。

外側と内側が違うというのは、嘘ということです。

だから偽善者と言われているのです。

人に教える人というのは、自分は外側も内側も清いと言っているので、それは嘘になります。

内側が清ければ全てが清いものとなるというのは、聖霊が宿れば何が起きても結構となるからです。

どんなに良い行いをしても、内側でイエス様を信じておらず、愛していないなら嘘であり、全部無意味になります。

偽りに聖霊は宿りません。

イエス様を愛しているなら、人からの名声は求めないのです。

褒められたり尊敬されたいと思うのは、自分が高くなりたいという欲望ですから、それは信仰ではありません。

立派な見た目の墓であっても、墓には何の意味も無いのです。

自分を立派に見せる人の信仰は死んでいます。

立派な話しをたくさんして人に教えていながら、行いが全く無いので偽善です。

イエス様を殺した先祖に同意して、今でもイエス様を殺しています。

イエス様が人の罪を身代わりに背負って死んでくれたと信じているからです。

イエス様を殺すことに賛成しているのです。

イエス様を殺すということは、全ての人殺しの責任を問われます。

殺しても良いと言っているからです。

パウロを信じるように人に教えて、イエス様の御言葉を封印していることは災いです。

自分が神の国に入らないばかりか、入ろうとして来た人を入らせないという責任は重大です。