あなたに平安がありますように。
あなたが救われますように。
イエス様のみこころのとおりになりますように。
イエスはまた一つの譬を語られた、
「盲人は盲人の手引ができようか。
ふたりとも穴に落ち込まないだろうか。
弟子はその師以上のものではないが、修業をつめば、みなその師のようになろう。
なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。
自分の目にある梁は見ないでいて、どうして兄弟にむかって、兄弟よ、あなたの目にあるちりを取らせてください、と言えようか。
偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい、そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるちりを取りのけることができるだろう。
悪い実のなる良い木はないし、また良い実のなる悪い木もない。
木はそれぞれ、その実でわかる。
いばらからいちじくを取ることはないし、野ばらからぶどうを摘むこともない。
善人は良い心の倉から良い物を取り出し、悪人は悪い倉から悪い物を取り出す。
心からあふれ出ることを、口が語るものである。
わたしを主よ、主よ、と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。
わたしのもとにきて、わたしの言葉を聞いて行う者が、何に似ているか、あなたがたに教えよう。
それは、地を深く掘り、岩の上に土台をすえて家を建てる人に似ている。
洪水が出て激流がその家に押し寄せてきても、それを揺り動かすことはできない。
よく建ててあるからである。
しかし聞いても行わない人は、土台なしで、土の上に家を建てた人に似ている。
激流がその家に押し寄せてきたら、たちまち倒れてしまい、その被害は大きいのである」。
本当に見えているのは、イエス様だけです。
だから、イエス様の言う通りにすると、私たちも見えるようになるのですが、イエス様の言う通りにできないから、精一杯力を尽くすしかないのです。
人の間違いが見えるなら、自分はそれが見えるから正しいのではなく、自分はそれ以上に間違えているはずです。
自分を正しいとする人は何も見えていないということになります。
自分の間違いを認めて、一つずつ改めて行かないと、正しいイエス様に近づくことはできないのです。
イエス様に従うと、善人になるのではなく、自分の罪が深いことがよくわかるようになるので、へりくだって頭が下がり、謙虚になって人に仕えるようになります。
自分が知っていると言って、人に教えて導くようにはならないのです。
自分は何も知らないとわかるので、改心して態度が小さくなるのです。
イエス様に従うならイエス様の言う通りに行うのですが、それができないからと言って、行わなくなっては意味がありません。
できなくても行うのです。
できないのは当たり前ですが、先ず心に思い、やり始めることが大事です。
イエス様の御心に叶えば、その通りに成るのです。