聖書を理解する 67号 | イエス様と生きる

イエス様と生きる

神様を褒めたたえることは
人としてとても大事です
死んだ者はそれが出来ません
死んだ人は神様を崇拝出来ない
生きるならば
本当の神様を崇拝することです

●疑問点➡わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない、あなた方の所に帰って来る

●考察➡聖書は神様の契約の書であるという理解ですから、イエス様が再臨されるという言葉は実現することになります、今は実現していないけれど、必ず実現すると信じる信仰です、神様は何でも出来るのですが、人の思う通りにやるのではなく、神様の計画とか仕組み通りにやるのです、私個人は何だか老化して動きが悪くて疲れが早くて無理が出来なくて、コロナ感染したり風邪を引いたりしています、最近は健康的だとは言えないです、イエス様を信じたら元気になって飛び回れるかというと、そうではありません、聖書に登場するイエス様信者も皆この世にはいません、モーゼもダビデ王もソロモン王もいなくて、この世には指導者はいないのではないかと思っています、良い指導者のいない世界だと思っています、自分の不幸は指導者のせいではありませんが、どんな場合もイエス様を信じて耐え忍ぶのがこの世の定めではないかと結論づけています、イエス様が「あなたがた」と呼んでいるのは弟子のことだと思うのですが、今の時代はイエス様の弟子はこの世にいませんから、イエス様が帰って来ると申している時期はいつかなのか分かりません、イエス様の戒めを心に抱いて守る者はわたしを愛する者である、イエス様を愛する者はわたしの父に愛されるであろう、イエス様もその人を愛し、その人にイエス様自身を現わすであろうと言われました、イエス様の十字架を信じてイエス様の父に愛されることはありません、イエス様の父が「つかわしたイエス様」を十字架に架けたのですから重大なことです、動物のいけにえは代価を払って自分のものにして、いけにえとして捧げることです、イエス様は天の父がつかわした方ですから、天の父の身代わりとして地を救いに来た、人の身代わりではなく父の身代わりであるのです、父の身代わりを自分の身代わりにすることは出来ません、自分より偉い方を身代わりにすることは出来ないのです、神様を身代わりにすることは出来ません、会社の社長が部下の犯した責任を引きうけることはあります、聖書の最大の問題はアダムとエバが犯した罪から起きたことです、イエス様が身代わりに死んでくれるのではなく、イエス様が悪の根を滅ぼしてくれるという内容なのです、イエス様が悪の頭を打ち砕くという結末なのです、悪魔はイエス様の踵(かかと)を噛むのですが、イエス様は悪の頭を砕くという約束です、イエス様が人の身代わりになって救うという契約は「無い」のです、イエス様が悪を滅ぼして信じる者を新天新地に昇らせるという約束だと解釈しています、自分で悪の根は滅ぼすことは出来ないです。