あなたに平安がありますように。

あなたが救われますように。

イエス様のみこころのとおりになりますように。





さて、過越と除酵との祭の二日前になった。
祭司長たちや律法学者たちは、策略をもってイエスを捕えたうえ、なんとかして殺そうと計っていた。

彼らは、
「祭の間はいけない。
民衆が騒ぎを起すかも知れない」
と言っていた。

イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家にいて、食卓についておられたとき、ひとりの女が、非常に高価で純粋なナルドの香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、それをこわし、香油をイエスの頭に注ぎかけた。

すると、ある人々が憤って互に言った、
「なんのために香油をこんなにむだにするのか。

この香油を三百デナリ以上にでも売って、貧しい人たちに施すことができたのに」。
そして女をきびしくとがめた。

するとイエスは言われた、
「するままにさせておきなさい。
なぜ女を困らせるのか。
わたしによい事をしてくれたのだ。

貧しい人たちはいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときにはいつでも、よい事をしてやれる。
しかし、わたしはあなたがたといつも一緒にいるわけではない。

この女はできる限りの事をしたのだ。
すなわち、わたしのからだに油を注いで、あらかじめ葬りの用意をしてくれたのである。

よく聞きなさい。
全世界のどこででも、福音が宣べ伝えられる所では、この女のした事も記念として語られるであろう」。













無駄であるとか、必要ないとか、馬鹿みたいだとか、そんなことあるわけないだろうとか、何でわかるのか。

何を根拠に言っているかと言えば、人の知識を元として言っているのですが、人の知識では全てを説明できません。

この世は全ての人がうまく行っていないのです。

たくさんの人が貧しく、苦労して、先の見えない生活を送っています。

人が自分だけ良くしようとして生きているからです。

イエス様は、皆が良くなるように教えたのですから、その通りに行うことです。

人のすることを、良い事にすることです。

邪見するから、悪く見るから、悪いことだと結論するのです。

悪く見ることは自分を善とすることです。

悪は善の仮面をかぶって心に巣食っているのです。

自分で自分の心は中々にわかりません。

わかったつもりになっていると、最後の最期まで騙されます。

常に心を改めて、少しずつイエス様の御心に近づいて行く必要があります。

悔い改めの連続です。

自分で自分をこれで良いとすると、自分の判断となります。

自分には何の根拠も無いのですから、自分の判断は間違いです。

自分を良いとしないで、人の行いを良いこととするのです。

自分は罪深い悪人だという自覚があれば、人を悪く言うことはできないはずです。

自分が何よりも低ければ、人は輝いて見えるはずです。

人の輝きが見えないなら、自分が高いのです。

イエス様は神様ですが、何よりも謙って下にいるのです。

下に謙って行かなければ、イエス様の御心には近づけません。