聖書を理解する 42号 | イエス様と生きる

イエス様と生きる

神様を褒めたたえることは
人としてとても大事です
死んだ者はそれが出来ません
死んだ人は神様を崇拝出来ない
生きるならば
本当の神様を崇拝することです

●疑問点➡わたしは罪人の頭(かしら)である

●考察➡パウロは自分のことを罪人の頭(かしら)であると表現しています、謙虚にへりくだっている表現だと説く牧師さんは多いです、本当にそうなのでしょうか、罪人の頭とは罪人の中で一番(トップ)であると述べているのですから謙虚な人だとは受け取れません、アダムとエバが悪魔の誘惑で罪を犯した時に神様はエバの子孫が悪魔(サタン)の頭を砕き、悪魔の子孫はエバの子孫の踵(かかと)を砕くと預言しています、こじつけかも知れませんが、頭を砕かれるのは悪魔の子孫であるパウロではないかと考察されます、パウロの所属するパリサイ派はマムシの子らですから、エバの子孫であるイエス様に頭を砕かれるのはパウロでもあると言えます、今まで長い年月にわたってパウロは世界の人をウソの福音でだまして来ました、聖書の構造は人々が罪の奴隷から解放されることです、世界のクリスチャンは罪から解放されていると信じているのですが、最後の審判で外に放り出されるのが裁きなのです、最後の審判はまだ判決が出ていませんので、気持ちを引き締めて(ふんどしを締めて)取り組むのが正解だと考察されるのです、パウロの福音はイエス様の十字架は完全に罪人のあがない(代価を払う)をされたのだと教えています、それ以外の福音は呪われよとなっています、パウロに呪われてもイエス様に呪われたら救われません、神様は祝福と呪いを人々の前に置くという構造です、食べてはいけない福音はパウロの福音となりますのでどなたもよくよく警戒しなさいとなっています、わたしを十字架に引き渡した者の罪は重いとイエス様が申しています。