日月神示を繰り返し読む 2024年06月06日 | イエス様と生きる

イエス様と生きる

神様を褒めたたえることは
人としてとても大事です
死んだ者はそれが出来ません
死んだ人は神様を崇拝出来ない
生きるならば
本当の神様を崇拝することです

日月神示 月光の巻

なりなりてなりあまれるところをもって、なりなりてなりあわざるところをふさいでくにうみをしなければなりません、この世のくにうみは一つ(秘答通・ヒトツ)おもて(面)でしなければなりません、みと(実透)のまぐわいでなくてはならないのに、表を一つにしていないではないですか、それでは今度のことは成就しないのです、奇数と奇数を合わせても偶数、偶数と偶数を合わせても偶数であることを忘れてはならないのです、奇数と偶数を合わせてはじめて新しい奇数がうまれるのです、今度の岩戸開きではヒルコを産んではいけません、アワシマを産んではいけません、今度は八の隈(くま)では足りないのです、十の隈、十のカミを産まなければならないのです、その他に、隠れた二つのかみ、二つの隈を産んで育てなければならないことになるのです、天のミナカヌシのカミのその前に、あめゆづる日あめのさぎりのみこと、くにゆづる月、地のさぎりのみことがあるのです、⦿の⦿の⦿です、その前に・があることを忘れないでください、十くさ、十二くさのカム宝、おきつかがみ、へつかがみ、八つかのつるぎ、九つかのつるぎ、十つかのつるぎ、いくたま、まがるかえしのたま、たるたま、ちかえしのたま、おろちのひれ、はちのひれ、くさくさのひれです、む、ひと、ふた、み、よ、いつ、む、なな、や、ここ、たり、う、であるのです、う、たり、ここ、や、なな、む、いつ、よ、み、ふた、ひと、むです、唱えてください、宣りあげてください、あまてらすおおかみは、たかあまのはらをしらすべし、また、たかあまのはらをしらすべし、また、たかあまはらをしらすべし、つきよみのおおかみは、あまてらすおおかみとともに、あめのことをしらすべし、また、あおうなはらのしほのやおえをしらすべし、また、よるのおすくにをしらすべし、すさなおのおほかみは、あほうなのはらをしらすべし、また、あほうなはらをしらすべし、また、あまがしたをしらすべし、大奥山とは神人交流の道の場です、道は口で説くものではないのです、行ずるものなのです、教えは説かなければならないのです、多数決が悪多数決となるわけが何故分からないのですか、投票で代表を出すとほとんどが悪人か狂人です、世界が狂い、悪となり、人民も同様となっているので、その人民の多くが選べば選ぶほど、ますます混乱して来るのです、選挙より他に人民の得心出来る道はないと申していますが、道はいくらでもあるのです、人民の申しているのは平面の道、平面のみでは乱れるばかりです、立体にアヤなせば弥栄えて真実の道が分かるのです、だからと申して独裁ではならないのです、結果から見れば神裁です、神裁とは神人交流によることです、神はうそつきだと人民が申しても、悪い予言はうそにしたいので日夜の苦労なのです、こらえられるだけこらえているのです、もう物ばかりでは治まらないこと、金では治まらないこと、平面のみでは駄目であることがよく分かっているのにカブトを脱げない神々様、気の毒が来ない前に改心結構なのです、遠くからでは分からないし、近づくと迷うし、理屈を捨てて神にほれ参ってください、よくこの神をだましてくれたものです、この神がだまされたからこそ太神の目的がなって来るのです、細工はりゅうりゅう、仕上げを見てください、区別すると力が出るのです、同じであってはならないのです、平等でなくてはならないですが、区別のない平等は悪平等です、天に向って石を投げるようなことは、早くやめねばなりません、霊かかりもやめてください人民が絶対無と申しているところも絶対無ではないのです、科学をさらに浄化弥栄えさせねばならないのです、時間空間が霊界に無いのではなく、その標準が違うから無いと考えてよいのです、奥山は奥山と申してあるでしょう、いろいろな団体を作っても良いですが、何れも分かれ出た集団、一つにしてはならないのです、奥山はあって無きもの、無くて有る存在です、奥山と他のものと混ぜこぜしてはなりません、大きな一つではあるが別々です、今までになかった奥山のあり方が分からないのも無理ないですが、これが分からなければこの度の大神業は分かりはしないのです、神の御用は、神のみこと(命、実言)のままでなくては成就しないのです、皆々が釈迦であり、キリストです、もっと大きな計画を持ってください、着手は出来るところからです、つかめる所から神をつかんでください、部分からつくり上げてください、我を出してはなりません、そなたはいつもそれでしくじっているのです、天狗ではならないのです、心が出来たら足場を固めなければならないのです、神の足場は人です、三千の足場、五千の足場です、気の合う者のみの和では和ではないのです、色とりどりの組合せ、練り合せこそ花が咲くのです、総てが神の子です、大神の中で弥栄えです、大きな心、広い心、長い心が結構です、中々に合わないと申しても一つの家族ではないですか、心得てください、夫婦けんかしないでください、夫のみ悪いのでなく、妻のみ悪いのでもなく、お互いに己の姿を出し合っているのです、よく会得えてください、分からないことがさらに分からなくなるのです、聞きたいことは何でも聞いてください、大グレは目の前です、アホになってください、一先づは月の代となるのです、ひっくり返ってビックリです、一はいくら集めても一です、二も三も四も五も同様です、〇にかえり、〇によって結ばれるのです、〇がムスビです、弥栄えです、喜びです、病むことは神から白紙の手紙を頂いたのであると知らせてあるでしょう、心して読んでください、ありがたき神からの手紙なのです、おろそかにしないでください、腹八分、二分は先づ捧げてください、運がひらけるのです、病が治るのです、逃げ道をつくってから追わねばならないのです、そなたは相手の逃げ道を塞いでギュウギュウ追いつめるから逆恨みされるのです、逆恨みでも恨みは恨みの霊団をつくり出すのです、悪を抱いてください、消化してください、浄化してください、何もかも太神の許し給えるものである故に存在するのです、そなたは神にこり固まっているのです、こり固まると動きが取れないのです、一度そなたの持っている神を捨てるとよいのです、捨てると掴めるのです、木にも竹にも石にも道具にもそれぞれの霊が宿っているのです、人間や動物ばかりではなく総てのものに宿っているのです、宿っていると言うよりは、霊と体とで一つのものが出来上がっているのです、一枚の紙の裏表のようなもので表ばかりのものもなく、裏ばかりのものもないのが道理です、数字にも文字にもそれぞれの霊が宿って、それぞれの能(はたらき)をしているのです、順序が分かれば初段、和に徹すれば名人です、流れ出たものはまた元に帰ると申しても、そのままでは帰れないのです、天から降った雨がまた天に昇るには、形を変えるのです、この道理をわきまえないと悪神かかりとなるのです、それはそなたの自己欲から出ているのです、自己欲も無くてはならないのですが、段々浄化して行かなければならないのです、浄化して大きな自分の欲としてください、自分のみの欲となるから弥栄えないのです、弥栄えないものは神の御心に逆行しているのです、自分で判断出来ることをなぜ聞くのですか、神に聞けば神に責任を着せるのと同じなのです、人間の悪い癖です、出直してください、与えることは頂くことであると申しても、度を過ぎないことです、度が過ぎると過ぎるものが生まれて、生んだ自分に迫って来るのです、五十九柱と申してあるのですが、その中の九柱は隠れた柱です、㋳㋑㋴㋓㋾㋻㋼㋓㋾です、㊀㊁㊂㊃㊄㊅㊆㊇㊈です、この九柱は〇です、心得てください、現われの五十柱の陰(かげ)の、隠れた九柱、心して大切にしてください、真っ直ぐに真上に神をいただくと言うことは、上ばかりではないのです、真下にも横にも前後にも立体に360度に真直ぐに神を頂かなければならないのです、神人交流の第一歩となるのです、そなたの仕事の思いつきは結構なのですが、神の御意志を頂かねば成就しないのです、神と申してもそなたが勝手に決めた神や宗教で固めた制限された神ではないのです、分かっただけでは駄目なのです、行いをしなければならないのです、生活しなければならないのです、芸術しなければならないのです、現実的には不合理であっても、不合理にならない道をひらくのが霊現交流の道であり立体弥栄えの道なのです、行き詰りのない道、新しき世界への道です、平面のみではどうにもならない時となっているのに何しているのですか、黒船にびっくりしていては間に合わないのです、釈迦、キリスト、マホメット、その他の世界の生命ある教祖及びその指導神を、み光の大神様と讃え祀れと申してあるでしょう、大日月大神様の一つの現われであると申してあるでしょう、どうしてみ光の大神様として斎き(いつき)祀りしないのですか、宗教しないのですか、そこにひかり教会としての力が出ないのです、人民の浮き瀬に悩むのを救うのはオホカムツミの神です、この能(はたらき)の神名を忘れないでください、この方はオオカムツミの神とも現われると知らせてあること忘れたのですか、大奥山と教会とを混ぜこぜにしてはならないのです、教会やその他の集団は現われであり、大奥山は隠れなのです、大奥山はこの度の大御神業にゆかりのある神と人とを引き寄せて練り直し、御用に使う仕組みです、見ていてください、人には見当とれない事が起きるのです