あなたに平安がありますように。

昨日旅行に行っていて、反芻できませんでした。
至らずに申し訳ありません。
悔い改めます。

あなたが救われますように。

イエス様のみこころのとおりになりますように。





イエスはまたも、海べで教えはじめられた。
おびただしい群衆がみもとに集まったので、イエスは舟に乗ってすわったまま、海上におられ、群衆はみな海に沿って陸地にいた。

イエスは譬で多くの事を教えられたが、その教の中で彼らにこう言われた、

「聞きなさい、種まきが種をまきに出て行った。

まいているうちに、道ばたに落ちた種があった。
すると、鳥がきて食べてしまった。

ほかの種は土の薄い石地に落ちた。
そこは土が深くないので、すぐ芽を出したが、

日が上ると焼けて、根がないために枯れてしまった。

ほかの種はいばらの中に落ちた。
すると、いばらが伸びて、ふさいでしまったので、実を結ばなかった。

ほかの種は良い地に落ちた。
そしてはえて、育って、ますます実を結び、三十倍、六十倍、百倍にもなった」。

そして言われた、
「聞く耳のある者は聞くがよい」。

イエスがひとりになられた時、そばにいた者たちが、十二弟子と共に、これらの譬について尋ねた。

そこでイエスは言われた、
「あなたがたには神の国の奥義が授けられているが、ほかの者たちには、すべてが譬で語られる。

それは
『彼らは見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、悟らず、悔い改めてゆるされることがない』
ためである」。

また彼らに言われた、
「あなたがたはこの譬がわからないのか。
それでは、どうしてすべての譬がわかるだろうか。

種まきは御言をまくのである。

道ばたに御言がまかれたとは、こういう人たちのことである。
すなわち、御言を聞くと、すぐにサタンがきて、彼らの中にまかれた御言を、奪って行くのである。

同じように、石地にまかれたものとは、こういう人たちのことである。
御言を聞くと、すぐに喜んで受けるが、

自分の中に根がないので、しばらく続くだけである。
そののち、御言のために困難や迫害が起ってくると、すぐつまずいてしまう。

また、いばらの中にまかれたものとは、こういう人たちのことである。
御言を聞くが、

世の心づかいと、富の惑わしと、その他いろいろな欲とがはいってきて、御言をふさぐので、実を結ばなくなる。

また、良い地にまかれたものとは、こういう人たちのことである。
御言を聞いて受けいれ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶのである」。














譬というのは、それだけでは意味のわからないものです。

だから、わからない人は必ずイエス様に意味を聞くのです。

譬を聞いてわかったつもりになる人は、イエス様を神と認めていないので、聞いても理解することができず、悔い改めることができないのです。

イエス様を神と認めていないとは、モーセにもダビデにも、誰よりも勝るお方だと認めないことです。

全ての人に勝るのが神であるのに、パウロを神と等しくして、イエス様を人と等しくしているので、イエス様を神と信じていないことになります。

人は神の全てを理解できません。

だから、常にイエス様に御言葉の意味を教えてくださいと祈っていないと、理解が進まないのです。

理解できていないのに、わかったと思い込むと、信仰が進まなくなって、同じことを繰り返すことになります。

同じことを繰り返すことは止まっていることです。

イエス様の御言葉は、常にサタンが奪って行くので、不断に求めていないと奪われ続けます。

根がないとは、信仰がないこと、イエス様を神と認めていないことです。

この世のことを大事にすることも、イエス様を神と認めていないことです。

以上のことから、パウロを信じる人が悔い改められないのは、イエス様を神と認めていないからということになります。

もう一度繰り返しますが、パウロを神と等しくしていて、イエス様を人と等しく引き下げているので、神を冒涜しているということです。

神を冒涜しているとは、聖霊を汚しているということです。