聖書を理解する 08号 | イエス様と生きる

イエス様と生きる

神様を褒めたたえることは
人としてとても大事です
死んだ者はそれが出来ません
死んだ人は神様を崇拝出来ない
生きるならば
本当の神様を崇拝することです

●疑問点➡自分は天国に行けるか

●考察➡聖書の構造は呪いと祝福だとなっています、順番では祝福と呪いです、神様の言葉が先にありますので、善悪の知恵の実を食べるなという言葉は「祝福」です、食べたら呪いとなります、イエス様の福音(言葉)は祝福です、イエス様がパリサイ派の教えは毒であると言ったのは呪いです、イエス様を十字架に架けたことは「呪い」です、呪いが祝福に変わることはありません、神様の法則は法則です、悔い改めは祝福ですし、懺悔(ざんげ)も祝福です、天国に入れることは祝福であり、地獄に行くのは呪いです、聖書はハッキリとしているので間違うことはありません、イエス様の言葉(教え)が呪いになることはありません、パリサイ派はダメとイエス様が言えばパリサイ派を否定することが祝福です、パリサイ派を肯定して祝福されることはありません、祝福の先に天国があるのですから、めでたいことです、イエス様の十字架を肯定して祝福されることはありません、世界のクリスチャンは十字架肯定派なので呪われるのは決まっていることです、ウソを信じるのが宗教なのです、神様の最大の性質はウソが嫌いだということです、真実や誠が神様の最大の特徴なのです、偽証とはウソの証言をすることです、ウソを教えを広めて祝福されることはありません、イエス様の復活とはイエス様の真実が明らかになることです、イエス様の福音でない教えを世界に広めて正しいと信じ切っているのは悪魔の洗脳の中にいるのです、聖書の構造は真実とウソの戦争で最後には真実が勝つという単純なことです、単純な内容を複雑にしているのが「神学」です、神様を心を尽くして愛しなさいという信仰をイエス様が十字架で死んで自分の罪を背負ってくれたと偽証しているだけなのですが、洗脳を解放するのは至難の業です、洗脳とは脳(のう)の信仰で学問としての信仰です、心の信仰は個人の信仰ですから奥まった部屋で祈りなさいとなっています、誰も見ていなくても出来る信仰なのです、イエス様の教えは小さい者になりなさい、一番下になりなさい、目立つ信仰は良くないのです、教えを宣べ伝えるのは大胆に堂々と実行して、信者の生活は目立たないことです、神様の最大の特徴は「目に見えない」のです、そこで本日の天国に自分が行けるかどうかの基準は自分が世に出ようとしているかどうか、この世から消えようとしている人が天国に近いと考察します、イエス様が昇天されたのも神様だからです、ずっとこの世にいたら神様ではないということになります、目立つのは神様ではないのです、神様を見たら信じるなどと言う人は論外です、相手にしなくても良いのです、「お前は見たら信じるのか、見なくても信じる者になりなさい」、見たら信じるなどと言う人は天国は無理です。