あなたに平安がありますように。
いくさ何時も勝と許りはかぎらんぞ、春まけとなるぞ、
正しくないものが正しい方に従わねばならんと人民申して御座るなれど、正とか不正とか申す平面的衣を早うぬいで下されよ。
正しいとか間違いとかではなく、耐え忍ぶことです。
あなたが救われますように。
イエス様のみこころのとおりになりますように。
イエスはこれらの言葉をすべて語り終えてから、弟子たちに言われた。
「あなたがたが知っているとおり、ふつかの後には過越の祭になるが、人の子は十字架につけられるために引き渡される」。
そのとき、祭司長たちや民の長老たちが、カヤパという大祭司の中庭に集まり、
策略をもってイエスを捕えて殺そうと相談した。
しかし彼らは言った、
「祭の間はいけない。
民衆の中に騒ぎが起るかも知れない」。
さて、イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家におられたとき、
ひとりの女が、高価な香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、イエスに近寄り、食事の席についておられたイエスの頭に香油を注ぎかけた。
すると、弟子たちはこれを見て憤って言った、
「なんのためにこんなむだ使をするのか。
それを高く売って、貧しい人たちに施すことができたのに」。
イエスはそれを聞いて彼らに言われた、
「なぜ、女を困らせるのか。
わたしによい事をしてくれたのだ。
貧しい人たちはいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。
この女がわたしのからだにこの香油を注いだのは、わたしの葬りの用意をするためである。
よく聞きなさい。
全世界のどこででも、この福音が宣べ伝えられる所では、この女のした事も、記念として語られるであろう」。
全ては、イエス様のためです。
イエス様のために生きるから生きて、イエス様を無くしているから死ぬ。
イエス様が命だと知らないから、自分がどうなるのかわからない。
イエス様が人を良くするために生きたことを知らないから、何もわからない。
善とは、人が良くなることです。
悪とは、人が悪くなることです。
人の見た善悪ではないのです。
イエス様に従えば良くなり、逆に行けば悪くなるのです。
人の善悪は自己中心の知識です。
悪人を裁いて牢獄に入れて殺しても、世界は一つも良くなっていません。
人は良くなっても悪くなっても死んでしまうという絶望です。
楽しても苦しい、苦労しても苦しい世界です。
イエス様の御言葉の意味を知らないからです。
イエス様は命がけでこの世に語りかけました。
無理やり従わせることはしませんから、自分からイエス様の元に行くしか方法は無いのです。
イエス様に一番良いものを捧げることです。
自分が一番大事にしているのは自分の命です。
命を捧げるのです。
自分の全てを捧げるのです。
人に捧げたら騙されるだけです。
イエス様に命を任せて、自分はイエス様の御言葉に行いを合わせることです。