あなたに平安がありますように。
あなたが救われますように。
イエス様のみこころのとおりになりますように。
さて、パリサイ人たちは、イエスがサドカイ人たちを言いこめられたと聞いて、一緒に集まった。
そして彼らの中のひとりの律法学者が、イエスをためそうとして質問した、
「先生、律法の中で、どのいましめがいちばん大切なのですか」。
イエスは言われた、
「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。
これがいちばん大切な、第一のいましめである。
第二もこれと同様である、
『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。
これら二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」。
パリサイ人たちが集まっていたとき、イエスは彼らにおたずねになった、
「あなたがたはキリストをどう思うか。
だれの子なのか」。
彼らは
「ダビデの子です」
と答えた。
イエスは言われた、
「それではどうして、ダビデが御霊に感じてキリストを主と呼んでいるのか。
すなわち
『主はわが主に仰せになった、あなたの敵をあなたの足もとに置くときまでは、わたしの右に座していなさい』。
このように、ダビデ自身がキリストを主と呼んでいるなら、キリストはどうしてダビデの子であろうか」。
イエスにひと言でも答えうる者は、なかったし、その日からもはや、進んでイエスに質問する者も、いなくなった。
尽くすとは、全てを出し切るということです。
心、精神、思いを尽くすとは、自分の考えも、自分の気持ちも、自分の内側全てのことをイエス様を愛するために使い切るということです。
イエス様を愛することが、人が良くなる道です。
イエス様だけが人を良くするからです。
全ての良いことはイエス様から来ます。
悪いことは自分が招くのです。
イエス様を求めないので、死ぬことになるのです。
自分の考えで生きるから、死ぬのです。
第二は、イエス様を愛することと同じで、自分のことのように思って、人を愛することです。
人を、イエス様を愛するように愛するのです。
イエス様を愛していなければ人は愛せないということです。
人の愛は自己中心の愛ですから、嫌いな人を愛することはありません。
一方では愛して、一方では死んでしまえと思うほど憎むのです。
殺す思いを持つならイエス様の御心から外れます。
殺す人は許されません。
イエス様を殺した罪を償うには、その罪に倍して愛するのです。
懺悔の悪きコトに倍した、よき言霊宣るのです。
イエス様を殺したことは許されないので、罪を許す権威を持つイエス様に許してもらうしか方法は無いのです。
イエス様を愛するなら、人を愛します。
私たちを殺す人が、神に仕えていると思う時が来ますが、殺す人はイエス様に仕える人ではありません。