あなたに平安がありますように。
弟子の言葉はイエス様の御言葉とは違います。
人の言葉をイエス様の御言葉と同じに扱わないことです。
あなたが救われますように。
イエス様のみこころのとおりになりますように。
神と主イエス・キリストとの僕ヤコブから、離散している十二部族の人々へ、あいさつをおくる。
わたしの兄弟たちよ。
あなたがたが、いろいろな試練に会った場合、それをむしろ非常に喜ばしいことと思いなさい。
あなたがたの知っているとおり、信仰がためされることによって、忍耐が生み出されるからである。
だから、なんら欠点のない、完全な、でき上がった人となるように、その忍耐力を十分に働かせるがよい。
あなたがたのうち、知恵に不足している者があれば、その人は、とがめもせずに惜しみなくすべての人に与える神に、願い求めるがよい。
そうすれば、与えられるであろう。
ただ、疑わないで、信仰をもって願い求めなさい。
疑う人は、風の吹くままに揺れ動く海の波に似ている。
そういう人は、主から何かをいただけるもののように思うべきではない。
そんな人間は、二心の者であって、そのすべての行動に安定がない。
低い身分の兄弟は、自分が高くされたことを喜びなさい。
また、富んでいる者は、自分が低くされたことを喜ぶがよい。
富んでいる者は、草花のように過ぎ去るからである。
たとえば、太陽が上って熱風をおくると、草を枯らす。
そしてその花は落ち、その美しい姿は消えうせてしまう。
それと同じように、富んでいる者も、その一生の旅なかばで没落するであろう。
試練を耐え忍ぶ人は、さいわいである。
それを忍びとおしたなら、神を愛する者たちに約束されたいのちの冠を受けるであろう。
だれでも誘惑に会う場合、
「この誘惑は、神からきたものだ」
と言ってはならない。
神は悪の誘惑に陥るようなかたではなく、また自ら進んで人を誘惑することもなさらない。
人が誘惑に陥るのは、それぞれ、欲に引かれ、さそわれるからである。
欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生み出す。
愛する兄弟たちよ。
思い違いをしてはいけない。
あらゆる良い贈り物、あらゆる完全な賜物は、上から、光の父から下って来る。
父には、変化とか回転の影とかいうものはない。
父は、わたしたちを、いわば被造物の初穂とするために、真理の言葉によって御旨のままに、生み出して下さったのである。
愛する兄弟たちよ。
このことを知っておきなさい。
人はすべて、聞くに早く、語るにおそく、怒るにおそくあるべきである。
人の怒りは、神の義を全うするものではないからである。
だから、すべての汚れや、はなはだしい悪を捨て去って、心に植えつけられている御言を、すなおに受け入れなさい。
御言には、あなたがたのたましいを救う力がある。
そして、御言を行う人になりなさい。
おのれを欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけない。
おおよそ御言を聞くだけで行わない人は、ちょうど、自分の生れつきの顔を鏡に映して見る人のようである。
彼は自分を映して見てそこから立ち去ると、そのとたんに、自分の姿がどんなであったかを忘れてしまう。
これに反して、完全な自由の律法を一心に見つめてたゆまない人は、聞いて忘れてしまう人ではなくて、実際に行う人である。
こういう人は、その行いによって祝福される。
もし人が信心深い者だと自任しながら、舌を制することをせず、自分の心を欺いているならば、その人の信心はむなしいものである。
父なる神のみまえに清く汚れのない信心とは、困っている孤児や、やもめを見舞い、自らは世の汚れに染まずに、身を清く保つことにほかならない。
耐え忍ぶこと。
怒りに任せないこと、相手を訴えないこと、自分を正しいとして、相手を間違いとしないこと、裁かないことです。
耐え忍ぶことは信仰だからです。
イエス様が耐え忍びなさいと言わなければ、私たちは耐え忍ぶことはできないです。
すぐに怒って、人の間違いを責めて、自分を正しいとしますが、自分は正しくないのです。
どこまでも永遠に、イエス様が正しいです。
だからイエス様に従うのです。
自分に従うことを耐え忍ぶのです。
自分の欲望を求めると、終わりの無い欲求にはまって死ぬまで出られなくなります。
イエス様の御言葉を、何よりも第一として、自分の欲望より優先することです。
欲望を耐え忍び、イエス様の御言葉を行うことです。
御言葉を知っているだけで、行わないのなら、従っているとは言いません。
イエス様は自分より人のために行いました。
自分のために行わないことです。