明智城(白鷹城) 平成22年 7月11日(日)
定かではありませんが、戦国時代の武将である明智光秀公の生誕の城と言われる明智城を訪ねてみます。
城の地図等の情報を得るために、明智鉄道明智線「明智駅」に寄ってみました。駅前の碑には「明智光秀公ゆかりの地」と記されています。
登城入口にある駐車には案内板がありますが、城の説明よりも恵那市なのに「大正村」なのか?、このことの方が気になってしまいました。以前の明智町は、今は恵那市になっていますが、それでも昔から「大正村」ではないのです。それで「大正村」について調べてみると(本当は、2度も大正の時代を味わいに来ています)、住民により大正時代の町並みを保存し、観光資源として活用して町おこしとして立村されました。初代村長は高峰三枝子氏で、2代目村長は司葉子氏が務めています。
雨上がりで泥濘ですが、足元に注意しながら登城します(念の為、長靴は持ってきましたが・・・)。溺手砦から、二の丸東砦をみながら、更に登って行きます。
チョットくたびれて来ましたが、もうチョットだと思いますので頑張ります。
出丸方面と本丸跡方面との分かれ道ですが、先に本丸跡へと向かいます。そして、本丸の真下にある二の丸跡に着きましたが、そこには何もなく二の丸跡の表示板だけがあるだけでした。
所在地 ・ 岐阜県恵那市明智町城山
遺構等 ・ 土塁、竪掘、横堀
築城年 ・ 宝治元年(1247年)
築城者 ・ 遠山三郎兵景重
城主 ・ 遠山氏、森氏、遠山氏
形式 ・ 山城
廃城年 ・ 元和元年(1615年)
標高 ・ 528m(比高差70m)
登城日 ・ 平成22年 7月11日(日) 12:35
本丸跡に立って廻りを見渡してみると、大正村とは対照的に賑わいは全く無く寂しくも思いました。
本丸跡から帰りの下りで、石垣跡や出丸を見ることが出来ました。東西17間・南北14間の石垣門の石垣が残されていました。
城主の明智遠山氏の末裔として、江戸時代の名奉行であった遠山の金さんこと「遠山金四郎景元」は、あまりにも有名人でした。






