製作も佳境に入り、 肝心な主翼リブ作りを控え翼型線図 は最初に準備していたが、 本機はDボックスのモノスパー、テーパー翼(先細)オマケに失速特性を考慮して翼付根から翼端に2.5度の捻り下げ、 つまり1本事に断面形状が異なり夫々に製作治具が必要、30cm間隔、 中間に前縁リブ。
板に各断面の白焼(当時図面は青焼に対して現在のコピーをこう呼んでいた)用紙を貼り、 リブ材をコマに合わせながら曲げて嵌め込む、 リブ材はヒノキ4×6ミリ角のヒノキ材、 それをコマで拘束し固定、 従ってコマは局所に数多くクギで固定、 リブの部材交差各部に現物合わせでガセット準備と接着等々数多くこまごまと、かなりな数に大変な作業量。 最早卒業迄の完成は不可能、 学生なりに読めたが口に出すは憚られた。
その様な時期に我が模型航空部後輩1年生の行木、黒木君が参加してくれた。 既に3年2学期時間が無い、 胴体と桁の完成に半年以上を費やした為。 手数が必要な時期、 先行きの不安は現実のものとなってしまった。
10月に就職試験、 ㈱積水化学工業(当時)入社試験(5科目)では準備ならぬまま。
試験前に福岡支店、試験後本社から人事担当者二度の家庭調査、それも周辺聞き取り(後日、狭い町内だけに洩れ伝わった)。 当然私は登校中で母が対応、丁度玄関土間に並べられたリブや治具の数々に好印象を得たのか、 入社後約1ケ月の講習、 同期50名前後が殆ど現場での交代勤務、 幸運にも設計に配属、日勤に。
将来プラスチックの時代、 やがて飛行機もその時代が来る、 先陣を切る夢膨らむ。 何より設計者の道に一歩、 飛行機作りの苦労が報われたものと今も信じている。
翻って完成は程遠く、しかし先行きの目途は付けるべく完成図でも仕上げねばと。
しかし現場作業に追われクタクタ、 後輩の彼ら頼りになりつつある。
年末、師の知り合いが時々懐かしさに工場を訪れて私達の作業を見守ってくれていた、 関係者通じ「フクニチ新聞」から取材の要請、胴体水平・垂直尾翼を仮止め、 見た目は骨組みながら立派な軽飛行機、 隼君篠原君達と作業姿をパチリ。
元旦の新聞に博多工高、中央高校、修猷館生「高校生が飛行機作り」と4~5段抜きでデカデカと写真もハッキリと現物以上に飛行機然と写っている。
世間に知られる事となり有難く嬉しいが、 より責任を背負って逃げられない状況。
その後、 NHK, 西日本新聞のネタに、私は卒業と共に赴任しなければならない時。
2月初頭より当該科目終了で卒業式(3月5日)までフリーに、 作業のラストスパートに賭けてる時、 親父の勤め先鉄工所㈱東光機械からロール機械の設計を頼まれてるが、どうか? 大阪行きに費用も必要とバイトに飛びつき10日余り、幅2mのローラー三本で鉄板を挟み前後送り圧延、大口径の曲面やパイプを形造る機械。
機械設計で学んだ動力や歯車の組合せ、トルク、歯車・歯形のアデンダム、デデンダム検証やローラーの強度計算等、 鋳型金物等々学業より飛行機設計で学んだ
ノウハウが全体像の把握と進捗に役立つた事は云うまでも無い、 バイト代5千円旅費と当面大阪生活の足しに有難かった。
その頃積水から3月6日に出社の旨通知が届きビツクリ、 3月一杯残された時間を作業に当てる積りが、卒業式当夜大阪に出発とは。
早速六本松の師宅へ伺い事情を報告とお侘び、 この間10日余り作業中断と私の去り行く状況に、 空前絶後の落雷! ひときわ大きな怒声に殺されんばかりの空気。
私もどうにもならぬ成行に師以上に悔しく思わず号泣。 私に賭けて頂いた指導の数々が思い出され自身に悔しく、 師の心情いかばかりか。
しかし尾を引く事なくその場でキレイサッパリが、 師の師たる所以。
大人の心構え、技術者としての姿勢、社会人として・・・縷々最後の教え。
以後終生、 師をオヤジさんと呼び嗣世(当時からの呼び名)と呼ばれ、 その後
第一高校航空機関科講師として生徒達に「人力飛行機」製作に当る際お供の如く、
又時に杖代わりに、 より実践的な勉強をさせて頂いた。 ※後に詳述の予定
次回 ⑩ 軽飛行機 その後
又々博多工高が・・・