卒業式は昨秋2学期より移転新築の野間校舎、 未だ講堂・体育館等無く校舎屋上青空下での卒業式典は天候に恵まれ無事・・・? 但しクラスの生徒会長中村義秋君の答辞が、
山内校長の逆鱗に触れ、彼の卒業取り消し問題を巡り大もめだったとは福本先生談。
級友や先生達へ碌な挨拶もせず帰宅し身近な荷物を整え、当夜国鉄の21:00発夜行の
急行列車「筑紫」で両親弟妹、M氏らの見送りで旅立ち。
列車は蒸気機関車でガタンゴトン、社内は超満員手荷物のダンボールとT定規を
手に乗降口に立った侭12時間、 梅田駅から阪急電車で福本先生紹介の東淀川・三国の下宿屋へ、休む間もなく積水化学尼崎工場へ直行、初めて尽くしだがヤット。
さて 本題の軽飛行機その後
前田隼人・篠原洋三両君も学業専念の為共に遠ざかった様で、 後輩の行木、
黒木君達の手で作業を継続していたが、 黒木君・福岡商業高校(新3年生)が
新聞かTVで知り参加してくれた。 のち彼は福岡在住の方は御存知かも市内各地に「黒木書店」の数々を立ち上げた人物。 彼を紹介がてら拙文を下記サイトで
しかしその頃、友泉の横丁と思しき文具屋の長男、技術畑とは無縁なご仁。
私達の当時もだが、 三人はこの様な場合極めて有機的に機能するものだ。
以後 彼等も同様に土・日・祝日含め連休や春夏冬工場で泊り込み作業の連続。
それは後の第一高校生徒達の「人力飛行機」製作まで伝統として引継がれる事に。
就職後、 初給料(初任給9.800円、春闘直後より11.300円但し可処分所得約3~4千円)
から毎月500円を手紙に報告と共にコッソリ忍ばせ送付、 後輩や師のお役に立てばと、
それらは纏めて当時高価な航空(樺)ベニアを買い揃えていただいてた。
就職直後の連休早速帰福し工場で彼等の仕事振り拝見、 心配の主翼リブ作り
は治具を含め7割方完成、 お盆休みの帰省時にはほぼリプ完了し、 スパー(桁)サブスパー(補桁)に取付けの最中、 相変わらず泊り込み自炊の徹夜作業。
聞けば今秋の博多工高「文化祭」模型?航空部として出品を目標に三人での突貫作業に励んでた、そしてエンジン、脚無し胴体、主翼共外観骨組みはそこそこ完成。
しかし詳しい経緯等定かでないが「文化祭」出品は中止となつて仕舞ったらしい。
彼等の努力と労苦は出品が目的では無くとも、 挫折感は容易に想像出来る。
私見だが、 察するに⑤の項で書込みの
※ 以前、師の指導で修猷館と博工の学生にプライマリー(初級練習機・通称パ チンコ)で訓練を、所が 我が先輩の操縦ミスから機体損壊、学校側(山内校長、師の修猷館後輩)は対応を有耶無耶に、以来訓練中止博多工高とは疎遠に。
従って師とは犬猿の仲、 山内校長の反対で止められた?
今も当時の校長には複雑で空しい思い、 特定の人物を拒む官僚的な体質が
あらゆる可能性の芽を摘み・・・・・・・・・を感じる。
後年 「福岡県教育委員長」就任、 市政だよりらしき小新聞に黒田家臣末裔
として、黒田藩の歴史を滔々と。
よって彼らの作業意欲を削がれ、 T.K.号の製作も先細りとなり彼等の本来の
学業に戻り機体は工場の天井に吊るされ以後教材としての役目を。
同機は、 構造等グライダー屋ならではの細部に渡る工夫満載。 それらは世界的にも
有名なドイツ・グライダー各社訪問時、 社長や設計者との質疑で前田建一師は彼等の
知る所、 細部に渡り段取り、治具工具に至るも随所に師の先見性を直接感じられ又賛辞も戴いた。 日本は7年間の空白期にも拘らず。
帰国直後、 S41/5例によりオヤジさんから呼出し、長崎駅売店で車内で読むべく雑誌「航空情報」を、 その年1か2月に日大航空科・木村秀正教授指導で人力飛行機リネット1号が飛行に成功との詳細記事。 その夜六本松(師自宅)で同機のコンセプトを巡り、 機体の配置、構造様式、補強要領、推進方式やパイロットの駆動方法等、喧々諤々の評論で盛り上がり、 我々ならと一夜で素案がほぼ出来てしまった。 やがて5年余りに渡る、 第一高校生の人力機試作・開発物語へと壮大?なドラマ誕生となる。
※ このH.27/12/28RKB深夜特別番組で「飛べやオガチ」が再放送される、 師と第一高校の生徒達で人力機飛行機製作・飛行迄の過程を追ったドキュメンタリー。
名物ディレクター木村栄文氏追悼の年末特番。