以後 書込みに当たり、 師を初め故人も多く又個人名やかなり同世代の方々も居られ、 名誉を汚す事無きよう、時系列に於いても正確を期したい。 何しろS33(1958)から半世紀を過ぎてのことでありウロ覚えも可也混じっているやも。 随時訂正にやぶさかで無いことを、 お許し願いたい。 木村嗣生 記
 
 春休み前突然、師から出て来いとのハガキが学校へ。 丁度旧前田航研工場(糸島・北原)で福大の航空部用にプライマリー(初級練習機:通称パチンコ)製作中、加勢させてやるとのお達しに小躍り。 工場内は倒壊寸前の木造建屋然、戦前戦後のグライダーや部品等で宝の山、 至玉の世界に陶酔。  現実は当然乍ら職人さん達の下働き、  加勢では無い。
 
 米と当時珍しかった食器用液体洗剤持参で、水汲み、飯炊き、洗い物、使い走りに作業段取りや準備、接着剤(カゼイン)の調合、接着の押さえ板やクランプの取揃え、馬(架台)の片付けや設置、工具の整理整頓。 職人さん達が段取り良く作業をこなせる為のお手伝い、 無論先輩の腕使いや手順は直接見学が勉強。
 
 ヤワな学生に当然、 師(親父)や職人からの怒声、叱責は毎度の事、 邪魔だ帰れと云われぬかと怯え乍ら。 数ヶ月後カンナ研ぎ、ベニヤ(航空用)作りから組立て作業等にも参加、 実機に触れる喜びは格別。 その夏休み愈々完成、福大のグランド(周囲はまるで森だった)での試験飛行、福大N教官の操縦により学生と共にイチニッサン・・ゴム索を曳きフワァ~ッと浮いた!  見上げると白い翼の骨組みが透けてる、 苦労を忘れ感激感動の時。 何度か飛行後、教官が操縦桿から両手を放し、手を水平に拡げた手放し飛行。 機体は変わらずその航跡をきれいに描いて飛行、設計・製作で目指すは安全と飛行安定性が大切を知った瞬間だった。  グライダーは動力が無く自力操作や回復に限度があり設計製作の条件は厳しい。 翻って私の飛行機の夢はグライダーの世界からは一瞥の対象(飛行機が)としか見られないのは当然、 パワーが無いので機の性能がモロに現れる
 
 福大に納機後一週間位い経て、お前の機体を作らせてやる! 思わぬ言葉にしばし絶句、 思うに何れ諦めると高を括ってたのが、 私の必死な姿に賭けて見ようと。 当時師の家計も決して豊かであろう筈も無いのは薄々知ってたが、 ハッハイと即答。以来、平日学校終業後、顧問をしておられた井尻の農機具工場2階設計室で製作図面、や現図作成に通い。 土(終業後)・日・祝日や春、連休、夏、冬休みは無論、土曜学校から工場(糸島・北原)へ直行、ほぼ徹夜で月曜朝登校が卒業まで続く事に。
 
 当時、中間・定期試験は金・土・月・火の休みを挟んだ日程、 ある時試験を口にした際たかが学校の試験如き(?)でオ(ウ)ロタエルとは何んごつヤッと散々延々怒鳴られ、 飛行機作り航空技術を目指す者が学校の勉強・試験位いは出来て当り前たい! なら辞めろと云わんばかりの大剣幕!! 師とは1対1だから逃げ場無くフルボッコ。
 
 3年夏休み福本先生宅に呼び出された。  お前就職する気は有るのかと、 正に皆が就職に掛けてる時期、両親からの不安視にも晒されながら、 自身工場通いで作業と格闘のさ中で心身共に疲労困憊、 どうにも八方塞り状態が辛かった。
 
 思えば県立工高受験時、博多工高同様に競争倍率は高くも家庭の事情で滑り止め受験許され無い。 が、入試前日も後輩とバスケットを夢中に、ほぼ全員中体連終了後は退部し受験勉強に備えるが常識の時代。
一縷の望みに託しそれに賭けるは以後の人生に於いても再々の事、 普通が最良・最善をこの歳で憶える。
 
 クラスのブログをと始めたもののコメント少なく、 折角でもあり容量(10GB)一杯か、       
 根の尽きるまでか、定かでないが・・・。