呉から(広島県立呉工高→福岡市立博多工高)転校(1年2学期 :9月)後の10月頃、近所のM氏から借りた雑誌「航空情報」に仏の17才少年が木製飛行機を自作し飛んだとの記事を目に、 飛び上がらんばかりの驚きと興奮を覚え体中が熱く燃えた、 これだぁーっと! its just what I wanted !  (英語表現がピッタリ)
即、 学校帰り毎日吉塚で途中下車、 東公園の図書館通いが始まった、夕飯までほんの数時間。 悲しいかな航空工学といえど流体、構造、性能の区分けも理解せぬまま、ただ航空に関する書物を積上げ何から始めれば、何を調べれば良いのかすらの堂々巡り。 専門書は難解な用語と数式の羅列 (専門・学術書等は誘導式が延々と続き、技術屋は最後の結論だけを摘んだら良いのだが) で、高校生にはサッパリ
 
 そこで目標とする軽飛行機の絵(図面)を描き、性能計算を試みる事としたが、重量予測、抗力係数、必要馬力の推算、性能・強度計算等基本的な要素すら知らない故、鶏と卵の堂々巡り、凧や強風で瓦でも飛んでるが、高校生では無理なのかと悩む。 後日、 仏の少年はキット(Jodel 3型)を組立て、飛んだ事を知る。
 
 今なら中学の数学・物理程度の知識が有れば十分なのだが、それは経験すればこその結論でしか無い。 翌年2月(1年終了前)曲りなりにもT.K.号の三面図と性能計算は出来上がった。 木工の工作は呉で自宅前は建具屋だったので骨組みの基礎は門前の小僧?ただ見てただけだが。M氏より戦前グライダー製作の前田建一師を知る。  
  ※前田建一 師   (戦前 (株)前田航研 国内最大のグライダー工場を経営)
以前、師の指導で修猷館と博工の学生にプライマリー(初級練習機・通称パチンコ)で訓練を、所が 我が先輩の操縦ミスから機体損壊、学校側(山内校長、師の修猷館後輩)は対応を有耶無耶に、以来訓練中止博多工高とは疎遠に。 師は自宅の庭木を売り手当て、 無責任な事後対応に胸の内治まらなかった時。
 
 過去・経緯知らぬ侭、 航空部顧問の芳野先生より名刺裏の紹介文を手に六本松の自宅へ伺った。 生憎、師は顔面神経痛で床に臥せられてた時期、 以前の事も
あり枕越しにグライダー屋に飛行機? 高校生?それも博多工高! 不快な表情は歴然、 さすがに凍りついた。 戦前は糸島(北原)で㈱前田航研・経営、軍用グライダーを製作(従業員は学徒動員含め1.500人)、 雷鳴り社長とはかって社員OB談(度々の落雷は私も本当に怖かった)。
 
 丁度、この12月28日RKB深夜特別番組で「飛べやオガチ」が再放送される、 師と第一高校の生徒達で人力機飛行機製作・飛行迄の過程を追ったドキュメンタリー。名物ディレクター木村栄文氏追悼の年末特番。 (氏との交誼も各界の著名人を何れ)不肖私めがきっかけ(後段紹介予定)と性能、強度計算・重量管理等を協力、 3年余り長崎(ドイツ遊学後:当時)より毎月通つた。   学生リーダーの天本君は㈲福岡航研設立の際、新明和工業を辞し真っ先に駆けつけ参加、 苦楽を共にした仲に。
 
 本筋に戻り、当時師宅は九大航空科や九工大、福大学生達等の溜り場、但し大多数は学連の飛行(操縦)連中。  作りたい! は師の琴線に触れたらしく、九大大学院のYさんに持参の資料を一通り概略計算一応は条件共に叶ってるとの結論だが。 しかし、高校生には・・・と、 学生連中の嘲笑を背にそのまま負け戦気分ですごすごと引き返したのが忘れられない。 その後Yさんは師と二人北原の工場で苦闘中の際、度々訪れ私を励まし支えてくれた。
 
         H27/12/28深夜 RKB特番は必見、
     今 若者が真の強いオヤジ(大人)と逢えるだろうか。