今まで「言葉がわかる、話せる(会話がちゃんと成立しない事もあるけど

あ、言っておきますが第三者から見て「困り感が少ない」だけで、本人の気持ちとは別な話ですよ。
重度の彼らは「言葉を理解しているのか分かりにくい、言葉も発しない、または一方通行、独り言、奇声、いきなりの予測できない行動、指示どうり動かない」と言った、本人が困っているのかすら読めないくらい。
けど、そんな彼らにも行動のパターンがあったり、話しかけると笑ってくれたり、何か話しかけてくれようとしているのか、近づいてきたり・・・となかなか面白い。
全く何もできないわけでもなく、帰ってきたら手を洗う、来たとき帰るとき、自分で荷物を整理します。おやつが終わるとお皿を持ってきます。エライ!
もっと小さい頃は大変だったんだろうなーと、今までのお母さんの苦労に頭が下がります。
デイに通わせる、ってことはちゃんと子供のことを考えているからだと思いたいです。
ここまで来るための手続きって結構大変なんですから。
私達もできるだけ、あの子たちが社会へ出るためのお手伝いをしたいです。
ふと思うんです。
彼らを見る目って、世間はどこか冷たい。
彼らの障害を生まれつき手足がない人と同じだと考えてあげられないのでしょうか?
周りの配慮、便利な道具、見た目に障害者だとわかり易い人には世間は手を差し伸べやすい。
なのに自閉症で奇声を発するような人には冷たい。その障害を治せ、健常者に近づけろと言う見かたをする。
手がない人に「手を生やせ」と言えますか?
もちろん、本人の努力も必要です。けれど、彼らの努力は「頭の中」なので、見えにくい、分かりにくい。
最大限の努力をしても「もっとなんとかならないのか」と周りは思ってしまう。
親御さんに「なんとかしなかったのか」と言ってしまう。親御さんの苦労を労うべきなのに。
そんな私もこの仕事に就くまではそれを実感してなかったかもです。次男の支援学級にはそれほど重度な子供はいなかったもので

狭い周りを基準に考えてたかも

これからももっと勉強しなきゃなー。