恵みの価値を決定するのは私たち自身だと考えます。苦労して出会った神様というのは、忘れることの出来ない貴重な体験として残ります。
それは他人が見たら唯の偶然であったり、「気のせいだよ」と言われるかもしれませんが、その体験というものは相対的なもので、その当人にとっては確信として残るのだと思います。
天の祝福を苦労して得るのと、無条件に与えられるのと、その価値は変わりませんが、その価値を決定するのは受ける私たちにかかっているということです。
日々の生活において、人それぞれ通過する環境や心情は違いますが、それは相対的なもので単純比較することのできないものだと思います。
そして、私の価値を決定するのもまた私自身だと確信します。それは、信仰を持つことは世間一般から見るならば、何の価値もないことの様に思われます。しかし、神と出会い真の父母と歩むことは、歴史的に見るならばどれほどの価値があることでしょうか。
私たちは本当の意味でメシヤの価値を知っていません、イエス様が天に昇られた後にメシヤとして認識されたように、メシヤが霊界に行かれた後で、皮肉にも本当の価値を認識することになるのかもしれません。
過去の多くの人がメシヤと共に歩む1日を望んだのであり、また今生きている人も霊界に行った後に、メシヤと同じ時代を生きながらその価値を知らずに死んでしまったことを泣いて悔いるだろうと考えます。
私が信仰を持つことに対して、肩身が狭く思うならば、その様に位置づけられ、メシヤと共にあることを最高の誇りと思うならば私たちの価値も最高度に高められます。メシヤをどのように位置付けるかで、それに追随する私の位置が決定するということです。
私の価値を誰が決定するのか、それは紛れもなく私自身。外的には何もなくとも、メシヤと共にこの貴い時を歩むことができること、人生の真理を知って歩むことが出来ることに最高の感動と喜びをもって1日1日生活していきたいです!

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