街はイルミネーションがあちこちに輝いて、クリスマスムードですね。そこで、今日は再臨主の誕生についてです。新訳聖書の黙示録には、再臨主は雲に乗ってくると書いてあります。
日本の代表的なクリスチャンである内村鑑三さんも、時折空を眺めて雲に乗ってくるかもしれない主を探していたようです。そして、今も再臨主が来るといわれている星を望遠鏡でずっと観察しているクリスチャンの教派もあると聞きました。
2000年前にこの地上に来られたイエス様は、雲に乗って来られずに、母の胎を通して地上にお生まれになりました。しかも、馬小屋の飼い葉桶に生まれたということは、どれほどの衝撃でしょうか。それは、神の一人子は決して両親から望まれて生まれたのではなく、人目を忍んで生まれざるを得なかった事情があったからに違いありません。
出生から十字架に至るまで、神様が愛したかった一人子があまりにも無残な道を行ったことを思えば、神様はどれほど悲しかったことでしょうか。
さて、私たちが再臨主と信じている文先生は、普通の外見は何ら私たちと変わりない姿で来られました、それは2000年前と同じです。自叙伝の中に出てくる先生の姿は、温かな家庭でやんちゃな幼少時代を送り、父の背中におぶさって平和を実感する、雲の上の存在ではなく、ごく身近な存在として描かれています。
ここで考えたいのは、イエス様が雲に乗ってくる必要性があるのかどうかです。確かに、雲に乗ってきたら再臨主を否定する人はきっといないでしょう。しかし、世人の姿で来られることに意味があるのではないかとも捉えられます。
本当に雲に乗ってこられるならば、私たちとはあまり関係のない、正に雲の上の存在だと思います。しかし、母胎を通して生まれ、一人の人間として歩まれるならば、私たちの苦しみ悲しみを理解し、あらゆる問題に対する解決の道を自らが手本として示されるでしょう。
そういう意味では、雲に乗って来られないということが、私たちにとっての福音かもしれません。
¥1,890
Amazon.co.jp
にほんブログ村
1クリックお願いします。