上記記事のブログ主さんは江戸時代は性に対して開放的であったのに、現代においては抑圧的になっているのはキリスト教的価値観が広まったからだというご意見のようですが、それは違うと思いますね。

 

そのように思うこと自体はどうでもいいと言えばいいのですが、陰謀論に嵌る人の考え方の問題点を理解する上で良い教材だと思いますので説明していきたいと思います。

 

江戸時代は確かに今よりかは性におおらかであったと思います。ただ、全く規範が無かったかと言われれば違います。江戸幕府の祖、徳川家康は性の乱れに対して多くの公家を処分しています。

 

 

八代将軍徳川吉宗の享保の改革では風紀を乱すものとして好色本の出版が禁じられ、本屋仲間が結成されて自主規制と検閲が実施されましたし、松平定信の寛政の改革では洒落本など大衆文学までその規制の網が広げられました。その後、水野忠邦の天保の改革でも風俗を乱す書物や浮世絵に対する厳しい摘発が行われました。これらの規制は儒教に基づく価値観によって行われたのです。ちなみに上記ブログに江戸時代の混浴の事例を挙げていますが、寛政の改革では「混浴禁止令」も発布されました。性に対する一定の規範は江戸時代からあったのです。ただ儒教的価値観に縛られていたのは主に武士階級で一般大衆はそうではなかったのかもしれません。

 

明治期になってキリスト教は解禁されましたが、政府高官にはキリスト教を良く思わない人も多く、実際、キリシタンの弾圧が一番激しかったのは江戸時代ではなく、明治初期であったという説もあります。ちなみに維新三傑の一人である木戸孝允は大のキリスト教嫌いで有名でした。

 

明治になって発布された「五榜の掲示」でもキリスト教を信仰することの禁止が謳われています。本音ではキリスト教を解禁したくは無かったが、外圧で仕方なくと言ったとことが本当の所でしょう。少なくとも積極的にキリスト教的価値観を広めようとする動きは無かったのです。実際、札幌農学校の校長であったクラーク博士がキリスト教に基づいた教育を行う旨を北海道開拓使の長官であった黒田清隆に告げたところ難色を示されています。

 

江戸時代の寺小屋の多くは男女共に学ぶというスタイルでしたが、明治期に入り、しばらくすると尋常小学校では男女のクラス分けが行われるようになりました。「男女7歳にして席を同じゅうせず」という儒教の価値観によりクラス分けが行われたのです。明治政府高官の多くは武士階級出身者でした。なので学校教育も儒教的道徳に基づいた学校教育が行われることになったのだと思われます。

それまでは主に武士階級だけだった性の規範が、明治以降の学校教育の影響により、一般大衆にまで広まっていったと考えるのが自然ではないでしょうか?

 

それでは、なぜ上記ブログ主さんは性を抑圧する規範はキリスト教によるものだと考えたのでしょうか?それは明治になってからキリスト教が解禁されたということと明治以降の性に対する捉え方が変わったということを安直に結びつけたからだと思います。この安直に結びつける思考回路を自覚し、注意しないと残念ながら何度でも陰謀論に騙されることになります。そして騙されることにより社会に迷惑をかけることになるのです。

 

陰謀論に嵌る人の多くが実に安直に相関関係があると思い込み、且つそこに因果関係を見出そうとします。相関関係があると断言するのは実は結構大変なことなのです。様々な交絡因子が潜んでいるかもしれないからです。