自称現実主義者は大体現実を見ていない
最新技術の話(殆ど噂程度のもの)や政治の裏話なんかを話題に出した時に
「それはもうSFの話だよ」と言う人は決まって科学知識が非常に低い。
興味がないレベルの知識量なのでじゃあ興味がないのかと思えば
偶に権威主義なのか「科学的に根拠がある」という発言を使ったり、
或いは妄信的に信じたりする。
かくいう肉も脳味噌は壊滅的だ。
だけど、だからこそ、
何も分からないのだから何も断言はできない筈ではなかろうか?
「そんなのはフィクションの中だけの話」
それは「そんなものは存在しない」という断言に他ならない。
何故、何も知らない筈の人間がそれを断言できるのか。
「ない」を証明できるのか。
そもそも僕は彼らに「証明」をされたことがない。
何の根拠を持って言っているのかわからないが、
彼らは「ない」という不確かな事実を妄信しているのだ。
そもそも、フィクションなんてものは人間が考えたものだ。
「人間如き」が考えたものがこの世に存在しないわけがない。
人はありもしないものは想像できない。
ネズミなどは素数の概念がないなんて実験結果があったりしたが、
まぁ彼らに概念があろうがなかろうが素数は存在する。
僕が理解できないのはその一点のみだ。
何故、「存在しない」と「断言」するのか。
別に「ある」ことを認めてほしいわけじゃない。
「ない」なら「ない」で別にいい。
幽霊だって宇宙人だっていてもいなくてもいい。
そりゃあいた方がロマンはあるが、事実として証明されるならば受け入れる。
だから、「ない」と言うならば「証明」してほしい。
そして「証明」できないのならば断言することもできない筈なのだ。
今まで生きてきた中で起こらなかったことや、
自分にはまるで関係なかったように見えたこと、
そもそも存在を知らないことまで色々あるだろう。
そんな今まで自分の中で構築された常識を崩されたくないのもわかる。
地下の暗闇に閉じ込められて生きてきた人間にとって
空が青いことなど眉唾な話だろう。
確認などできないし、そもそも色という概念がないかもしれない。
想像がつかないことを説明されても懐疑的になるのは致し方ない。
「疑う」のはいい。
「否定」はできない筈だろう。
否定したいのなら、「証明」してほしい。
誰もが望んでいるものはそれなのだから。
賞賛じゃない、擁護じゃない、慰めじゃない。
欲しいのはただただ「証明」だけなのだ。
結果などどうでもいいのだ。
「真実」を知りたいだけなんだ。
つまらなくて、ありきたりで、地味で、そつなくて、手近で、
そんなことが「現実的」なんて一体どうして思ってしまうんだ。
狂ってて、信じられなくて、ありえないような、バカみたいな、
そんなことが「現実」には沢山あるじゃないか。
自分の常識に縛られて事実を捩じ曲げてはいけない。
興味がなくて考えたくないなら否定する必要もない。
懐疑の目を持つ必要も、信じる必要もない。
その議題に対して無色透明でいればいいだけではないだろうか?
そりゃ、できれば自発的に探求するのが一番素晴らしいが。
興味のない分野だっていっぱいある。人生は短いから仕方が無い。
陰謀論的な話なんて顕著だ。
信じるも信じないも自分では知りようが無い事実ばかりだ。
よっぽど調べたい人間でない限りはそうそう考えなんてまとまらない。
だからこそ信じるべきではないし、信じないべきではない。
それはもう仮説であり、個人としては保留状態の情報なのだ。
或いは信じたい人を信じればいいだけの話だ。
「現実的」なんて言葉を使う人の多くは
誰か(何か)を信じているわけではないと思い込んでいる。
その実、「有り得ない」という断言をする何かを信じている。
彼らの「現実」は灰色で冷たくて明瞭でハッキリしているようだ。
何でそんなに世界のことがわかりきっているのだろうな?
高々100年も生きられないような生き物が、
一体何を悟ったというのだろうか。何を知っていて何を証明できるのか。
できるもんならしてみて欲しいくらいだ。
彼らは誰を信じているのだろう。彼ら本人も知らない誰を信じているのか。
いつの間に現実はつまらないものだと思わされているのだろうか。
いつの間にフィクションの中だけがカラフルだと思っているのだろうか。
何故フィクションの中が一番自由だと考えるのだろうか。
人が飛べるからか?死んでも生き返れるからか?なんでもできるからか?
そんなこと、現実だってできるだろう。
「人間がまだできない」だけじゃないか。
偉くなったような気でいてただの赤ん坊だってことを忘れている。
鳥は飛んでる。魚は泳いでる。微生物は宇宙を旅している。
人間ができてないだけだ。
できないことが永遠にできないままなのならば、
人は何故四つん這いで歩き続けないのだ。
頂点に立ったつもりになって鳥かごの中で「暇」と鳴く。
なんてつまらない世界を生きているのだろう。
そりゃあ死にたくもなるよ。そりゃあ辛いだろうよ。
飛べないならどうしたら飛べるか考えたらいいじゃないか。
やってもいないことがなんで出来ないとわかるんだよ。
興奮して話がまとめられません先生。
とりあえず僕がいいたいのは、自称現実主義者は現実を見ていないってこと。
そして何も信じていないと言いながら高々一個体の常識を「世界の理」と
信じ続けているということ。
「現実主義者」が聞いて笑う。
僕も目で見たものでないと信じられないタイプの人間だ。頭が固い。
だから「有り得ない」ものも、目で見ないと信じられない。
自分で納得できなければ信じられない。
「ある」も「ない」も信じられない状況だったら、それは保留案件だ。
もっと情報が必要な案件だ。もっと調べるのだ。調べたければ。
信じたい現実しか信じられない人間など、
現実主義者などとは呼べない。
それこそ空想が好きだと言わざるを得ない。
現実は謎だらけだ。賢者ですら何も知らないのだから。
未開の地だってあらゆるところに存在する。
そこで何が起こってるかなんて想像もつかない。
現実はあり得ないことでいっぱいだぞ。信じられないものばかりだぞ。
それを中々信じられないことは責められるべきではないけれど、
それを打破することを喜びにしてほしいとは思うよ。
「常識」なんてものは表面の人間関係を良好にする代物だ。
それは大事なことなのでまったく捨ててしまえとは言わないが、
それに縛られて認識を歪めることはとても勿体無い。
少なくとも「自分が何を信じているのか」ということは
自覚を持った方がいいのではないだろうか。
そしてそれが、如何に根拠が薄いものかも理解した方が良い。
科学でさえ99.9%は仮説だ。
「何を信じればいいのか」じゃないんだ。
真実には誰も到達していないのだから。あるのかさえわからない。
信じたいものを信じて、それを証明する為にその命を燃やせ。
「好き」という呪縛
「好きなことを仕事にしなさい」
「好きなことをやりなさい」
親が子に、先生が生徒に、呪いの様に吐きかける言葉。
好きなものがハッキリとしてる人間は何も感じないだろう。
好きなことをしていいなんてありがたいとさえ感じるだろう。
実際、そうだ。
素晴らしいのは、その世界のピースが綺麗にハマったこと「のみ」だ。
好きなものがハッキリとしていない人間だってこの世にはいる。
「その程度で音を上げるなんて情熱が足りない」なんて言われて、
「好きではなかったのかな」と思ったら先の呪いで崩れ始める。
そして何も出来ない人間に成り下がる。
そりゃあ、人生の命題は誰にだってあるかもしれないし、
何かに情熱的に打ち込めるなんて素晴らしいし、
見つからないなら探し続けてもいいとは思う。
しかし我々は食っていかにゃ。
時間は無限でもなければ6時間毎には腹が減る。
仕事をせねば。
働かざるもの食うべからず。
仕事に誇りを持つということは大事だ。
でも最初から誇りを持てる仕事を選ぼうとしても難しくないだろうか?
どういう仕事かも深くは理解していないというのに。
好きかどうか聞くのは「長く続けられるのか?」ということを
問いたいのだと思う。
ではどんな仕事も長く続けられない人間は死ねということだろうか?
仕事をさせてはくれないのか?
いいじゃないか。単発で次々やっていけよ。
途中でベストマッチな仕事に出会えたらいいじゃないか。
リスクは伴うけどそういう気持ちでやったら思ったよりは続くじゃないか。
そういうものだろ仕事って。
絶対好きじゃなきゃダメかね。
仕事したくねぇなって思っちゃダメかね。
ダルいって思ったっていいだろ。
まず働いてからそんな贅沢を言うんだよ。
好きなこと見つけたら脱サラしたらいいじゃない。
最初から好きなことじゃなきゃいけないかね。
好きなことってそんなに急いで決めなきゃダメなのかね。
決まっていないとダメなのか?
仕事にしなきゃいけないのか?
切り離して考えたっていいだろ。
そういう人間だっていてもいいだろ。
つーーーか、
好きにしろって言われてゲームやってるようなボンクラが、
「好きな進路」なんて決められるわけねーーーだろボケ。
愚弟の話です。ハイ。
好きな進路は「一生下手なゲームしてたい」だろ。
なんでそれはダメなんだよ。なんでそれ抜きで「好きなこと」なんだよ。
好きなこと言って否定されてんのに
「好きなことは?」って聞かれる身にもなれよ。
「楽したい」って言ってるだろ本人が。
「母ちゃん元気で留守がいい」ってことだろ。
将来の夢は「ニート」って小学生の頃から言ってるだろうよ。
俺は覚えてんだからな。
それはダメって言って嫌だっつってる仕事やれって言うんだからよ。
どれだって嫌な仕事に決まってるだろ。
やってもいないのに誇りどころか好意も持てねぇだろ。
どれだって怒られたら一発で辞めるだろ。
好きじゃなくていいんだよ。
怒られて嫌になった向いてないのかもしれない。
そんな感情は邪魔なんだよ。向いてないとかねぇんだよ。
そもそもバカでもできる仕事に向き不向きなんてねぇんだよ。
できなきゃ何の仕事も出来ずに死ぬんだよ。
黙って手を動かしてろ。
勝手がわかってくれば愛着が湧いてくるし、愛着が湧けば誇りも持てるだろ。
できればずっと同じ職種でやっていった方がいいとは思う。
職場は替えても職種が一緒ならどんどんキャリアになるし。
でもまぁ途中でどうしても替えたかったら好きにしたらいい。
いいもの見つけたんだと思う。
それまでの時間稼ぎだとでも思えば良い。
「好きなもの」という聞き方が本当に嫌いだ。
本当に好きなものは否定するのに、何故聞くのかわからない。
「なんでもいいから仕事をしろ」でよくないか。
どうせ二十歳過ぎたら言うんだから。
今から言ったらいいじゃない。
「好きなこと」があたかも儲からなくてもいいような話、
もうするんじゃないよ。バカバカしい。
大人になって趣味を探してるわけじゃないんだよ。
好きなことを仕事にしようとする病の人の考え方本当に嫌いだ。
好きなことなんて好きにやったらいいだろ。
趣味だって遊びだっていいだろ。
必須科目:仕事
選択科目:好きなこと
混ぜてもいいし離してもいい、以上。
いじめっこって巷ではそんなに偉いの?
今日、母親と話していていじめっこの話になったのだが、
なんだか「いじめっこ」という概念が人によって違うのか?
と思い始めたので整理したい。
そもそも「いじめ」とは。
嫌がる男子クラスメイトを女子便器にぶち込むのは?
暴れん坊で有名なアヒルのいる飼育小屋に閉じ込めるのは?
上履きに画鋲を入れてみたりするのは?
どれも小規模で酷い虐めというものではない。
少なくとも母親はそう感じているようだ。
彼女曰く、「東京の陰湿で集団的な賢いいじめ」というものが存在するらしい。
LINEでやりとりしながら仲良いフリした隣りのクラスメイトを
どう料理してやろうかにやにやしながら話したりとか?
小声で怒らせてクラスメイトが殴り掛かってきたら先生に被害者面で訴えるとか?
正直最初に挙げたものとどう違うのかが僕にはわからない。
どれも普通に行われるじゃれ合いだからだ。
母親は弟がやられた、
玩具の手錠で遊んでいたら鍵を隠されて警察沙汰になったことが、
東京の陰湿な虐め?の例として挙げていた。
真剣に違いがわからない。
トロい奴とか、壁を作ってる奴とか、
兎に角こっちが深く突っ込んでいかないと関係すら持てないような奴に
そういう歓迎の儀式が行われるのは当たり前の光景では?
それを空気の読めない奴や人と信頼関係が築けない奴、
つまり、冗談が通じない奴に必要以上にやってしまった状態、
それが重く取られる「いじめ」だと思ってた。
上記の軽いものも結局はいじめなのだが、
いじめっこといじめられっこの信頼関係によって
問題行動かどうかが変わってくるのだと思っていた。
そう、僕の中では
「いじめっこ」と「いじめられっこ」という立ち位置は
この状況の説明文のAくんBくんのようなもので、
アクションを起こした者を「いじめっこ」と認識していた。
しかし母親はそれを鼻で笑い
「そんなのはいじめっこじゃなくていじめられっこだよ」
「もっとレベルの高い話をしているの」
と言われた。
正直、どの件だろうとこの法則は適用されるのもだと思う。
彼女の中の「いじめっこ」は「悪質ないじめっこ」ということだったのかもしれないが、それでも「いじめっこ」は「いじめっこ」だろう。
「いじめっこ」というものは変動的な立ち位置の話だと思っていた。
まさかその地区No.1いじめっ子集団を「いじめっこ」と呼ぶとは
思ってもいなかった。
「いじめっこ」というものにそこまでの地位があるとは思わなかった。
偉かったのか、「いじめっこ」って。
この感覚は確かに持っている人はいると思う。
ニュースになるような酷いいじめを生み出してしまう「いじめっこ」。
僕にはそれは単なる組み合わせの問題、
つまりは「いじめっこ」と「いじめられっこ」との間に
適当な潤滑剤がなかったというだけのことだと思うのだが…。
何故かそれは「いじめっこ」というホラースターのようなものが
全ての元凶の要に語られることがあるようだ。
子供のいじめなんて適当なものだ。
気に食わないから、人と違うから、目立ったから。
気になっただけでとりあえずちょっかいを出す。
その方法は色んな方法があるが、どんな方法だって原動力は同じ。
酷い時なんか親に怒られてむしゃくしゃしてたからなんてものもある。
必ずしも「いじめられっこ」と仲良くしたいというわけでもないし、
よくわからないもの、異形のものに触れてみたいだけだ。
根底には恐怖があるのかもしれない。
重度のいじめをする場合、恐怖は確実にあると僕は感じている。
恐怖対象が反抗的であれば誰しもが排除したいと思うだろう。
子供はその点において素直なだけだ。
そして経験が少ないだけだ。
恐怖を感じ、排除しようとする。
排除することで英雄になれる、地位を手に入れられる。
そんなものを進んで欲しがる。
或いはおこぼれに預かろうとする。
そんな人間は偉くもなければ大変なものでもない。
ただの怖がりだ。怖がりを隠そうとする見栄っ張りだ。
そんな奴に「悪質ないじめっこ」なんて言ったら、
喜んでしまうだろう。何故飴を与えるのか。
そして怖がりで、見栄っ張りなんだから、
そいつらが「いじめられっこ」になるのも必然。
というか、かつての力関係が逆転するなんてよくある話じゃないですか?
いじめっこに多いのは小学生の時点でよくできた子。
体力があったとか、身体が大きかったとか、適当に勉強ができたとか。
だから自信ができて見栄を張る必要が出来てくる。
そして往々にしてそんな奴は努力をしなくなるので
最終的にウサギとカメ状態になるのは自然の摂理だ。
だから、母親の「いじめっこはいじめられっこ」という発言には
大いに賛同できるのだが、「いじめっこ」にランクがあって、
ある一定のランク以下のいじめっこはそう呼ばれないというのが不思議なのだ。
黙って見てた奴も含めて全員「いじめっこ」だろうがよ。
って僕は思うけどね。まぁ自分の身が人質だからしょうがないけどね。
もしかして母親が言ってる「いじめっこ」というのは
もはやもっとレベルが高い「親が官僚」とかそういう奴だろうか。
なんかもはや「いじめっこ」というレベルを越えてる気がするが。
だが結局のところそうだろうがなんだろうが、
レベル100だろうが雑魚だろうが、
いじめてたら「いじめっこ」だろ。
いじめられてたら「いじめられっこ」だろ。
逆転したら逆になるだろ。
それだけじゃないの?と、思うのでした。
母親は会話の初めにやるべき「定義の擦り合わせ」が嫌いなようなので、
僕は会話がずれてるなと思いながらもなんとか説明するしかないのですが。
ちょっと夢なんだけどな。
議論の前に定義の擦り合わせやるの。
すげー話がスムーズそう。
世間話なら途中からでもいいからやろうよ。
それはこっちの話ですねハイ。
まぁあんまり「いじめっこ」に凄いイメージを付けない方が良いですよ。
母親は「犯罪者」とかにもこのノリを適用するのですが、
なんだろう。犯罪が増えて欲しいっていう潜在意識があるのかな…。
重く受け取って欲しいという思いなんだろうなとは思うのだけれど、
正直そんな風に受け取るような人間は犯罪を犯さない。
賢いけど犯罪を犯す人間は人のその程度の言葉で行動を変えれない。
そんな気がしてしまう。
プリズナーグルーピーだって煽られるぞ。
「すごい」と思ってきたりするんだし。
本気で無罪を信じてるって人を見た時は流石にチビったけど。
まぁ…どうでもいいか。
いじめっこかこいいかこいいえらいすごい
理不尽撲滅死隊
仕返しなんてのはあまりやり過ぎると
自分にまで悪影響を及ぼしかねないものですが、
仕返しの矛先としてわかるかわからないかっていうのは
個人的に受けたもので勝手にジャッジしようと思います。
仕返しの矛先は→で表します。
いじめっ子に虐められた→いじめっ子を虐め返した(わかる)
夫に酷いことをされた→子供をはけ口にする(わからない)
先生にバカにされた→先生をバカに仕返す(わかる)
パート先の先輩にいびられた→子供につらく当たる(わからない)
親に酷い育てられ方をした→子供へ酷い育て方を繰り返す(わからない)
子供に反抗された→子供を叱った(わかる)
一人から虐められた→世界が憎い(わかるけどそれは違う)
わからない(理不尽なこと)の大半は
まるで自分が正義かのように大手を振って歩いています。
こちらが異議を唱えることがまるで間違っているかのように睨みます。
自分の為にもならない。
前に向かって歩く気持ちも権利も失う可能性がある。
だから仕返し…というより復讐になってはいけない。
少なくとも個人ではそうだと考えています。
だからってこんな理不尽なことを永遠に許しておくのも腹が立ちます。
復讐というものは組織だってやるものです。
組織だってやった復讐は前へ進んでいるからです。
とはいっても組織の寿命というものは人より長いので、
結果ハッピーエンドかどうかというものはお約束できませんが。
でもどうしても腑が煮えくり返って仕方が無い。
誰にも受け入れてもらえないなら居場所がなくなってしまう。
そんな状態なら目指したっていいんじゃないかと思ってしまいます。
途中で気が変わったらそれでもいい。
動機が不純で何が悪い。
前に進む為には形振り構ってられないでしょう。
理不尽をぶっ潰して行こうぜ。
ここは保育園
人を支配していないと生きられない。
そんな人を「精神が幼い」と言っていた人がいた。
僕の両親は精神が幼い。
常に支配しようとしてくる。
一人は力で。一人は言葉で。
幼いから何も教えられない。
狡賢いクソガキだから後から「私のいうことを聞かないから」と言う。
だから子供も幼く育つ。
何も知らないから。
何も教えられないから。
幼い自分でもやっていける人を支配する方法くらいは
体現してくれたのではないだろうか。
僕はそれを実践できている。本当に醜い生き方だ。
だから人と会いたくない。
人を支配したくないし、されたくない。
かといって健全な関係の作り方がわからない。
弱い者の弱みを握って支配するのみだ。
それは絆し。
支配するものは支配されるものだから。
それは相互関係なんだ。
僕が外に出ても当たり前のことを言われる。
「精神が幼い」
それを享受できる程に僕の精神は大人じゃない。
僕はきっとずっと人を支配して支配される。
そんなバカみたいな支配ごっこしかできない。
それしか教わっていない。
「教わらないとできないのか」
と教わってきた人間が殴る。嘲笑う。
金持ち物持ち恵まれっ子。
そういう奴は全部捨てられるから、
うっかり記憶も落として自分が0から頑張ったと錯覚する。
僕は物を捨てられないから、持ってるものが貰ったもの全て。
僕の部屋と押し入れに収まるものが僕が今まで生きてて貰ったもの。
これだけで生きていかなければならないのだから、
これ以外の生き方なんて考えられない。考える余裕はない。
精神の強い大人たちとやりあっていくのに、
精神でぶつかったら負けるに決まってる。
それで勝てるなんて思う程、僕は子供じゃない。
今から努力したって、努力をやめてしまった大人くらいにしか勝てない。
ずっと努力してた人には勝てない。勝てちゃダメだろ現実として。
だから邪道の道をいくしかないんだ。
今更王道を行けなんて、また「支配」して来ないでくれ。
精神が幼い人間を助けられる人間がいるなら。
この連鎖を止められるのに。
そんな人間が多いわけじゃない。
だから僕は存在している。
幼い人間しかいないこの保育園で、
まだ、
生きてる。