閑話休題、廓と書いて、さとと読むのは故郷を捨てた証か?故郷に捨てられた証か? | 儂は悪くないぞ!松平が!松平の奴が悪いンだ!

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日々思ったことを、とりとめなく書いていきます。
政治や歴史ネタ、特にどこぞのまとめブログとかみて
右や左の賤民ども・・・もとい、愛国や革命に殉じている
立派な馬鹿者ども・・・じゃない、なんだ、その
てきとうにツッコンで書いてくところ。禁無断転載

 閑話休題、北へ向かう前に、ちょいと酒でも飲みつつ一休み
さて、このブログは書籍化!なんてジャンルに入ってますが書籍化はされません。
当初は、最近、こうるさいネトウヨだの、シバキ隊という在日ヤクザ連中とか、世間を乱す馬鹿者どもを揶揄しつつ、思い出でと政治評でも綴っていこうかと思ってた訳ですから、ま、右も左も敵に廻せば出版なんてのは無理日本国でございます。

 第一、内容やジャンルに、まとまりが無く、ましてや本を買って、いや立ち読みでもすればわかる大したことも無い内容を有料メールで配信するって訳にもいかんでしょ。ネット環境があれば何時でも無料で読めます。
 あと、電車や新幹線で長時間ヒマな時とか、営業をサボってコンビニの駐車場に止めた車の中や、公園のベンチでヒマ潰しに読んでもらえる様に一回の更新を長めに書いてあります。

 酔いもまわってきたところで、酒といえば芸者でも呼びたいところですが、え?アリランに語感が似ているアリンス語とかわからなくてもいい?そうですかな?例えばよ・・・雨宿りしていたら店先から少女が貴方に声をかけてくるわけですよ。
「もしえ、花魁でこっちへ入って雨をやめなんとし1おっせえすから、こっちへ
おはえんなし」雨宿りをしている貴方を見初めた花魁が禿に貴方を呼びにいかせたんですよ。
 嗚呼、貴方が普通に通ってたら会うことができない美女かもしれないのに・・・
え?風俗いくからいい?あーっ、なんて無粋な奴なんだろう!
口では愛国だのなんだの五月蝿く喚くわりには、結局、チョンコロが元締めのトルコ風呂こと吉原ソープ朝鮮風呂?あーやだやだ!鈴木の朝鮮風呂に挑戦とは大した国士様だよ、まったく・・・ 
 廓詞は江戸開府時に遊女が足りないので、京都の嶋原から連れて来た時に一緒に入ったと言われている。遊女の田舎訛りを消す為と、当時、美女は京に限ると言われていたので採用された側面もあろう。
「言いにくく ありんすねえと 気味悪さ」

 で、この廓詞、ドラマじゃ遊郭の人間が、みんな使ってるように見えるが
実際は遊女の太夫、格子、散茶と、遊女見習いの新造、禿が使って良い。
女性でも女中もは、勿論のこと、遊女も遣手婆になると使わない。
というか使ってはいけない。権力者の朕や余と同じで、一つの権威に権力の象徴となるからだ。
 そんなわけでアリンス語は岡場所の私娼(金を払えばやれる今の風俗嬢のこと)も真似しだし、1764年、明和元年の柳句で「岡場所で アリンスなどは 図横柄」と始まり、時が経ち、岡場所に廓詞もなじんだのか「おきやがれ 鉄砲玉まで さとなまり」ときたもんだ。
この川柳の鉄砲玉は岡場所の鉄砲見世という百文、二百文の安く買える私娼窟のこと。


 そんな流行に流行った廓詞ですが吉原共通言語ではなくて妓楼によって特徴があり、山東京伝の四家言語解には
松葉屋
来ました=来いした、じれったい=ジレットウス、ある=オッス語尾=オス
丁字屋
語尾にナンシ、ザンス
角玉屋
あなた、こなたの=コンタァノ
扇屋
本当ですか?=ホンザダンスカエ?語尾=ダンス
他にも中萬字屋の語尾にマシなど、ネンシもあったりで一家に一冊欲しいですね。
もう鳩バスのツアーはなくなったんで?・・・どこでつかおうか?
  普通のアリンス語で妙なの
人をはぐらかす時に=ドウトモナンシ
人を呼ぶ時に=コンナ、コンナ(これな、これなから)
たしなめる時に=シャレンスナ
ぶつよ、なぐるよ=クラシンスゾエ(喰らわしますぞ)
そう言われますが=ソウオッセエスガ(そうおっしゃいますが)
利いた風なこと=キュウナコト
客を送り出す時の別れの言葉=オサラバエ
馬鹿にするな=オブシャレザンスナ
あわてまいよ=ウソソシメエヨ
話のない=話がアルヨ

・・・下三つは難解すぎますな。

 もちろん、先ほど出てきた岡場所にも流行していくと、それぞれ独自の調子に転化しまして、馬糞と菖蒲が名物といわれる内藤新宿の女郎は、来ましたが来イシタ、ナンシをネンシと言ってた。まがイとか、ネンシとか、どうも調子が田舎臭くなり、稲垣史生先生曰く馬糞女郎とは言ったもんで。
 さらに深川に広まり、夢中散人寝言先生(先生までが著者の名前)の辰巳之園では、ナンシが使われております。
 最後に岡場所として当時最低の蒟蒻島の安女郎の話、ここの下谷仏店という私娼窟が、奉行所の取締りを受け、お白洲へ送られた女郎たちは「わたしや夜鷹じゃアリンセン」と何時もの癖で弁明したもんだから、そのアリンス語が証拠だとばかりに、みんな牢屋送りに。
 蒟蒻島の一件以来、私娼はアリンス語をつかわなくなったそうです。
「廓ことば 習うも抜くも ひと苦労」ときたもんで


 一方、その頃、ホモ達はアリンス語を習得していた。
ホモというか蔭間達も新宿女郎と同じくネンシと語尾につけてたそうです。
彼らが使うと念者とかの衆道っぽい感じもしますな。
「御殿者来てクダンセを忘れかね」
御殿女中など、概ね男の廓詞は受けが良かったようです。
蔭間だけアリンス語でゴンセがあり、天保年間まで使われてました。
「近いうちゴンセと後家を送るなり」
 今でも使われる大阪新地のよろしうオマとか、えろうオマスなぁなんかも
新町廓の名残で、元は語尾にンスで、サンス、ゴザンスと使っていたが
馴染みの客には「一杯酒を召しナハマセ」とナマス、ナハマスを使い始めた。
そのナマスが転じてオマスに、大阪の人は本当に面白いお方でオマスわえ。
 酔いが廻って舌も滑らかになってきたところで、一つ面白い話でもしましょうか。何故に尚王家は支持されないのか?前回の記事やwikipediaをみてもイマイチ理解ができませんという方がいましたので北の海へ向う前に、もうちょい飲んで身を暖めつつっとね。


 1609年慶長14年に薩摩が琉球を攻めた結果、琉球側の戦死者530名余りであるが、内首里王府の正規兵は8名のみで残りは義勇軍である。
 薩摩側死者60-100名あまり、特に火縄銃の脅威に対して山刀や豆打棒などで戦った琉球国民のなんと勇敢な事でしょうか。それに対して、尚寧ら貴族は目の前で刃傷沙汰に及ぶと自己保身に走り降伏しました。

 江戸に連れてかれた後、1611年慶長16年、那覇港から裏道をとおり、こっそりと城に戻ってからやったことは、犠牲になった国民の葬儀や追悼ではなく・・・留守の間に城が汚れたと言い出し、戦火に巻き込まれた住民達を、戦火をのがれた城の修復に狩りだした。
 一年かけて城の修復はおこなわれた。それ以後も犠牲になった領民の碑を建てたり墓を立てたという記録はない。当時の沖縄には、そういう文化がなかったのかもしれない。

 時を経て、琉球処分の後、侯爵一等管の尚泰は都内に邸宅をもらい、従三位に叙せられ、一割利付き金禄公債20万円を下付され、宮中麝秀の間詰めに任ぜられた。

 兄弟子族も全員男爵に叙せられ
(今帰仁王子)朝敷 金禄2,058円、尚健 金禄2,220円(当時の1円が約1~3万円辺りの価値)

尚寅、尚順も同じ様に金禄を得たのは勿論のこと、首里王府高官364人も400円前後支給され前と変わらぬ地位を保証されました。もちろん、普通の琉球国民には一銭も入りません。


 また、時を経て沖縄返還間近の時、尚一族の子孫の屋良朝苗の話、1972年1月に沖縄教職員組合、官公労は琉球政府と統一団体交渉をし、復帰時の給与を360円レート換算で行うことを政府からとりつけた。
(当時のドルはニクソンショックで308円まで落ちていた)

 これは後に沖縄のみ1ドル360円という形にはなったが、まず自分達の利益だけは確保するという彼らの姿勢は何年たっても変わる事はない。
 こんな王族の血を引いている屋良氏が在籍している、かりゆしクラブの独立を支持する者が少ないのは当然のことだ。今も昔も金で買えない物はないと言われますが、元より売る者がいなければ商売は成立しません。愛国だの独立だの言ってる御仁が、裏では沖縄に対する尚一族達の様にコンプラドールの顔を見せてるかもしれない。

 曰く、女房と國を売る奴は信用するな。


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