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 最近みたTwitterで、ある連中が琉球独立は自衛隊と米軍の撤退が前提で琉球の滅亡を意味しますとか、琉球王家を復活させようとか、困った事を呟いておりまして、恐ろしい事に、連中の一匹のtweetを掘り下げるとサンカは独立民族とか信じられない事を呟いていて呆れてしまった・・・こういった輩が伊勢神宮を取り巻いていると考えると心が重くなりますね。

 第一、独立と言っても、大半の沖縄の人達の考える独立は日本保護下での独立で、自治領や保護領的な形で、自分達で軍隊を持たないけど日本の自衛隊に守ってもらう考えです。いきなり自主独立しようとなんて考えてません。

 しかし、自分が職場であった沖縄の人達で、若い男性達は良く独立と米軍基地完全撤退を叫びますが、女性達は独立は難しいし、基地は嫌だけど基地がないと仕事がなくなるから・・・と冷静な答え。すると男性が日本から独立して基地が無くてもやっていけるという。どうやって食べていくのかというと・・・模合とハブとりで独立しても働かなくても暮らしていけると・・・おい、そのハブを買い取ってる金は、どこの国の金かわかってるのかと思いつつ。女性陣も呆れておりました。

 ま、こんな感じで彼らの言う沖縄独立の大半は荒唐無稽で政治的意図はないので目くじら立てるのもなんだと思うのですよ。ただ、彼らの深い本音が含まれていることは確かですね。特に自分が話した時も米軍への嫌悪は酷かったですね。あと、現在の尚王家の人々も金持ちとか自分達だけが得をしているという感じで、誰も復権を望んでいないし、まったく敬愛されてない。もし、そんな事をしたら本土と沖縄の分断が進むだけでしょうな。

 そんな沖縄の男達を支える彼女達の結婚するなら譲れない条件、第一位が、やっぱり結婚後は沖縄で暮らすこと。あと、浮気しなければいい位かな(それ位、沖縄の男の浮気は酷いらしい)とか言ってましたが、どうです?そこの年収が低くて結婚を諦めている貴方!そこの貴方ですよ。ここは思い切って寅さんの様に沖縄の地に骨を埋めてみてはいかがでしょうか?

  しかし、沖縄の人の郷土愛は高いですね。部署の次長なんかも、こんなところは嫌だ沖縄に帰りたいと、時々仕事中に故郷を想い涙を流すので驚いたのですが、逆に君は故郷に帰りたくならないのかい?と尋ねられた時に、全然思いませんと答えて「東京のどこがいいの?」と相手にショックを与えたり。どうも自分の様な北海道出身者や東北、北陸など雪国の人は、そう答える傾向が高いですね。ええ、あの腰を痛める雪かきがねぇ・・・しんどいんだ。


 ここまで書いてピンときたのが、個人ブログでみた観光記。

http://blog.goo.ne.jp/fool1934725/e/05672441a58ecaaf97e80a16b4f253fa

済州島の男はいかに怠け者で、女好きで、道楽者であるか~やはり、両者にはつながりがあるかもしれません。元と高麗連合軍に負けた三別抄は、指導者の金通精は自決し、残る1300人は捕虜となった。それとは別に九州をへて琉球に落ち延びたという説がある。その根拠に用いられるのが龍蔵城跡から出土した高麗瓦である。癸酉年高麗瓦匠造という刻印があり、癸酉年は1153年、1273年、1333年、1393年などが該当するので、韓国の学者なんかは、三別抄が来たから13世紀から琉球が栄えたと言ってますが、それは甚だ疑問であります。

 まず、文化が中国から朝鮮、朝鮮から日本へと伝わったと言われますが、それは間違いです。それ以外のルートも存在しており、日本は中国文化を朝鮮と同じか、それより早く享受していたのではないかと言われています。
 佐賀県佐賀郡大和町惣座の惣座遺跡から出土した細形の銅剣、銅矛の鋳型は弥生前期前半頃といわれ、遅くとも朝鮮と同時期には細型銅剣を作っていた事がわかります。北九州市八幡西区松本遺跡に弥生時代前期末の鋳型と炉壁の一部とみられる焼土塊も出土してます。従来、中国・朝鮮から仕入れていたと思われた青銅器が、早い時期に生産されていた事が判明してます。

 また、貞観8年(866年)に、肥前基肆郡擬大領の山春永、藤津郡領葛津貞津、高来郡擬大領大刀主、彼杵郡住人永岡藤津らが、新羅人と共謀し、新羅入りして兵弩・器械を造る技術を教え、対馬を攻撃しようとした計画が発覚しました。

 その後も1273年の三別抄鎮圧後ですが、1429年に世宗から「倭紙堅靱、造作の法また宜しく伝習すべし」と命令された朴端生が来日し、学生の金慎に「造車の法」を精査させて模型を作り、鍍銀(銀めっき)、造紙(紙漉)、朱紅、軽粉等の製造法を報告しています。


  いや、ちょっと待ってよ!琉球は日本と別の国だから関係ないんじゃない?果たしてそうでしょうか?

琉球とのつながりは記紀に616年(推古24年)夜久人(掖久・夜勾・掖玖)が30人ほど来朝し、帰化した記述からです。これは随書、巻81列伝第46東夷伝流求國伝の夷邪久国人の記載が裏づけになります。

 また、奄美は657年(斉明3年)に海見嶋、682年(天武11年)には阿麻弥人と、今と全然違う漢字で表記されてまして、続紀の699年(文武3年)あたりから今と似ている感じの表記に落ち着いてきます。

629-630年(舒明1-2年)田部蓮某が掖玖を調査したり、多禰・多こと種子島の人達も677年(天武6年)飛鳥寺西の槻の樹の下で饗したと記述が出てきます。そして朝貢されたり、人を遣わしたりと交流は続きますが、701年(大宝1年)に任命され702年(大宝2年)6月に出発した遣唐使が従来の新羅を通る北路ではなく南嶋路を通る事になったせいか、同年、多褹を平定し、多褹と掖玖は国郡制度に組み込まれます。ちなみに、この遣唐使は唐に倭から日本への国号変更を通告した遣唐使だと思われます。

 他にも唐大和上東征伝に753年に遣唐使が蘇州黄泗浦(江蘇省鹿苑)から出発して阿児奈波嶋(沖縄本島)に漂着したことが書かれている。
 朝鮮人も日本人の大半の方も、古代の沖縄は文明の遅れた国と思ってそうですが、それは間違いです。日本、中国、東南アジア諸国とも交易をしており、中国北宋末の陶磁器なんかが出土したものでは有名です。また、日本から平仮名が伝わっており、表音文字として幾つかの文章が残ってます。いきなり少数の人達が入ってきて数年で大規模な変化が起こった訳ではないのです。そこに至る道程は既にひかれているのです。

 張保皐(張弓福)という新羅人は、沿海の海民達を従えて交易(840年・承和7年に日本に使者をよこし翌年から日本も交易を認めました)などで独自の勢力を築き、王位継承争いに負けた神武王を助け王位につけました。日本でも円仁の在唐を支援し続けたことで有名です。
 彼は841年前後に暗殺されますが、彼の部下や、彼の支配下にあった島の人々は北九州に逃げてきます。三別抄より人数が多く、東南アジア、イスラム商人と取引したほどの集団ですから、もし、琉球が耽羅によって劇的に変化をしたのなら北九州にも、しかるべき大きな変化があるべきです。

 最後に嶺表録異記によると、唐代、閩に住む周偶が嵐に遭い琉球に流れ着いたという。琉球人は背が低く、皆、麻の服を着ており、礼儀正しかったという。彼らは周偶に鉄や釘と交換で食糧をくれた。琉球に来ていた新羅人の客は、彼らの言葉が半分くらいわかるらしく仲立ちし訳してくれた。

「この国の人々は、中国人の貴方が琉球に漂流してきたのだから、よほどの災禍にあったのだろうと気づかってくれてる」・・・ここで注目すべきは、新羅人の客が来ていて言葉が通じてるということで、普通に交易して高麗瓦が入ってきてもおかしくはないのです。

 私は三別抄が言われてるとおり誇り高い戦士なら、無関係な自分達を助け、今まで協力してくれた耽羅の民を逃がすと思います。もし、一緒に逃げたとしても、この楽園の民を巻き込んで、遠く離れた元への復讐を企むのでしょうか?むしろ、武器を捨て、辿り着いた拠の世の楽園で瓦を焼きながら故国を思いつつ、残りの余生を平和に暮らす事を選んだに違いないと思う。

 最近、観光に力を入れているためか伝統文化を復興を謳っているようですが、薩摩に侵攻され、支配下に組み込まれ、江戸へ向ってる途上で、薩摩側から和装をやめて、従来の伝統の服へ着替えるようにいわれます。ここでマルクス史学者は、薩摩藩が彼らを琉球の土人として見世物にするために着替えさせたと説きますが果たしてそうでしょうか?薩摩人の特徴として、一旦、刃を交えた者に対して甘い所があり、幕末の佐幕派の人達も降伏するなら薩摩藩の人物を望んだものです。この時、和装から民族の誇りある衣装に着替える事を拒んだ尚寧王を見た時に、彼らは、どんな気持ちだったのでしょうか?もし、これが他の藩であれば琉球の伝統文化はどうなったのでしょうか?意外と運が良かったのかもしれません。   


 しかし、今回、気になったのは、Wikipediaは先ほどの惣座遺跡出土遺物や松本遺跡とか、勝福寺古墳、観世音寺の唐三彩、岡山の南方遺跡などの中国に関連するものが出土している遺跡の記述が意図的に避けられてるように思えます。
 情報が新しいから対応できてないのでは?と思われるかもしれませんが、惣座遺跡については、昭和60年12月14日の西日本新聞に記事が載りました。不思議なことに朝鮮関連は充実し、中国由来の記事は作られず、該当記事があっても、原本にある朝鮮に不利な記述は削られて、記事が記述・編集されてます。ついこの間の日本人を殺す為に通り魔殺人を犯そうとした韓国人の記述が、意図的に消された事を思い出します。Wikipediaから記事を引き上げて、別のインターネット百科サービスに移るとか考えた方が良いかもしれませんね。面倒臭いからいっか。

 次は蝦夷の方へ行く予定。