おまえはもう死んでいる・・・鮑!いや、あべし!耽羅くてきなネタでゴメソ | 儂は悪くないぞ!松平が!松平の奴が悪いンだ!

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 去る6月29日、三重県鳥羽市国崎町で伊勢神宮に奉納するアワビを採る御潜神事が行われた。

この儀式は明治4年まで、旧暦6月1日に志摩半島や離島の計7村の海女らが集まって老の浜で神事を行ったという。由来なんかは↓で確認してもらうとして

http://www.toba.gr.jp/200/post_797.html

 この鮑を始めてとして海産物は、日本の食卓に欠かせない食材で、古くから神々に供える神饌であり、延喜式を参照しても米よりも多くの海産物が捧げられています。島国日本だから当たり前だろ!と言われてしまえば、確かにそうなんだけど。

 さて、この延喜式の中に、佐渡鰒、隠岐鰒などと一緒に、耽羅鰒が豊後国と肥後国から調として貢納されてます。これより有名なのが平城宮跡から出土した木簡に、天平17年という年号と志摩半島の名錐郷から耽羅鰒六斤が、奈良の都へ送られた事が記されていた事でしょうか。網野先生の本にも出てますね。

http://kankyou-web-cor.com/cont-kaiyoengan-isemikawa.html

 で、耽羅とは済州島とはなんぞや?何時頃から日本とつながりがあるのかというと、古事記では多遅麻毛理、記紀では田道間守(こっちじゃ天日矛の曾孫だってよ!)という男が、「と、と、非時香菓が喰いてぇー」と言い出した垂仁天皇の為に、ちょっくら常世の国まで探しに行った話。

非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)・・・春夏秋冬、四季を選ばず、いついかなる時も香り枝づく果実・・・臭そう・・・ドリアンっぽいが記紀によると橘の実(耽羅のみかん)らしい。温州蜜柑の方が美味しいアルヨ!

 記紀によれば斉明天皇7年(661年)5月 に王子の阿波伎らを派遣して日本に対して初めて朝貢を行ったそうです。

 この頃は耽羅という一つの国でした。古くは漢書や三国志に出ている州胡が、そうであると云われており、この州胡の人は言語が韓と異なり、背が低く、鮮卑のように髪を剃り、上半身に革の衣を着たが下が覆われず裸に近い。牛と猪を飼い、船で往来して韓と交易したと記述されており、確かに済州島は火山島で畑作に向いてないせいか、1274年に元に追われたやってきた高麗の義勇軍(元側の高麗にとっては反乱軍)三別抄と一緒に戦って負けた後、直轄地にされて牧という馬の牧場にされましたが、果たして畑作事情でしょうか?

 肥前風土記に景行天皇の征討説話にでてくる白水郎(あま)という容貌は隼人に似ているが、言葉は異なる人々の話「小近島(五島列島の小値賀島)に土蜘蛛大耳が居り、騎射を良くする」とあり、なにやら倭寇を髣髴とさせます。倭寇は主に陸上で馬に乗って暴れ、騎射に巧みでした。

 倭寇は、年代的に元朝を経てからですが、耽羅がもとから馬の生産地だったおかげで、近辺の海民は牛馬に慣れ親しんでいるようにも思えます。


 話変わりまして、東国三神社の一つ香取神社に仕え、霞ヶ浦・北浦で漁業や海運に従事したといわれる海夫という人達がいます。さらに肥前の松浦党の下にも同じ漢字読みの海夫がいます。同じ日本だから当然?いいえ、中世では地域によって名称にバラつきがあり、北陸地方では海人、琵琶湖から瀬戸内海にかけては網人と呼ばれてました。 

 李朝実録に水賊(倭寇とは違います)と記されてる人々の中に、青い服を着て倭語をあやつり、大鰒を採って、細引き鰒(長鰒)をつくり貢納した『船を以って家となし』えた人々が記されてます。

 また、三浦の乱で対馬へ逃げ帰った恒居倭人の中に、常に妻子を船に乗せ、船を以って家となす人達がいます。この人達は倭の別種といわれ、言語や服装も違い、しばしば水賊になり、水底に潜って船底に穴を開ける戦法で倭人や朝鮮人の船を襲ったという。霞ヶ浦の海夫も潜水した記録は見つかってませんが水上生活者といわれ、また近年まで日本中に家船という人々がいました。家船の人達も水に潜って鮑を採ってたそうです。耽羅の人々とは、我々が思っているより深い結びつきがあるのかもしれません。


 では話を少し戻して海女さんの話に、済州島の海女は記録では明治10年ごろから日本へ来ているそうです。最初は三宅島、伊豆半島、そして有名な房総半島。房総半島の朝鮮海女は、本になるほど有名で、現在でも潜りに来ているそうです。昔はヨードの『かじめ』なんかも採っていたようですね。

http://www.jejujapan.com/news/articleView.html?idxno=163

 彼らが定期的に来訪している事を裏づけるかの様に千葉県鴨川市東江見にある長興院には朝鮮人達の墓石があり、その中に済州島出身者の墓には誇らしげに耽羅と彫られている。

なぜ、韓国、朝鮮ではないのか?下記のリンクを読めば彼らの思いがわかるかもしれない。

http://www.jejujapan.com/news/articleList.html?sc_sub_section_code=S2N35

 日本からも明治になって佐賀関の海士が済州島に漁へでかけました。徳島の海部郡(カイフグン、愛知の海部郡(アマグン)と混同しそう)の海女が済州島に行って、済州島の海女から海水パンツをはくこと教えてもらったりと色々とl交流があったようです。が、網野善彦先生が一つ疑問に思っているのは、本当に300年もつながりがなかったのか?江戸時代も交流が続いていたのではないか?明治になって簡単に行き来が再開してないかという点です。そういった謎も何時か解明されるかもしれません。 

 明日は対馬から琉球か、それとも東北から北方領土あたりを・・・どっちになるかは波の赴くままに・・・ 


メイン参考文献

海と列島の中世 (講談社学術文庫)/網野 善彦

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