「理想のパートナーは?」という談義になると、けっこうみんなスラスラと自分の意見を言います。
このテーマは、定型文のように、自分の中で答えを決めているんでしょうね。
よくある想定内の会話なのでしょう。
しかし男性でも、女性でも、「理想の人は?」と問われたら、言いはばかるので、あまり口にこそしませんが、本当のところは「自分をわかってくれる人」となるのではないでしょうか。
女性なら、自分の素の姿をそのまま全部受け入れてくれて、深く理解してくれて、それでいて「そんな君が好きだよ」と包み込んでくれる男性。
そんな人がいれば、心から安らげるのではないでしょうか。
別人のように化粧して、経歴も詐称して、見栄と体裁でうそ半分の会話をして、その結果、好かれたところで、いつまで関係が続くか不安ですし、自分を飾るのも疲れますし、寂しくなるものです。
男性でも、自分の等身大のすべてを知った上で「そんなあなたが大好きです」と、心からついてきてくれる女性があればいいなと思います。
そんな人とめぐり合えたら、私達は孤独から救われます。
「そんな人、いるわけないじゃん」と口では言っても、心の中はやはり求めてしまっています。
私達は「わかってほしい」「わかってほしい」と寂しさに心が渇き、魂の理解者を求めているといえましょう。
(おっ、この人、相性いい。わかってくれる人だ!)と結婚するのですが、結婚してしばらくたつと、(この人は私のことを全然わかっていないし、わかってくれようともしない)と、愕然とさせられます。
一つ屋根の下で暮らしながら、寂しくなります。
不倫も「わかってほしい」の渇望感から始まるようです。
「妻はぼくのことなんかちっとも理解しようとはしないんだ」「わかってくれるのは君だけだよ」
「夫は少しも私のこと、わかってくれない」「私を理解してくれる人はあなただけなの」
という会話のやりとりがここかしこでなされます。
不倫をやめるのも「あっ、この人、わかってくれてないんだ」と知らされて、冷めていくようです。
近づけば近づくほど、生活を共にすればそれだけ、「わかってくれない」寂しさと不満が強くなっていくのは皮肉なことです。
哲学者の三木清は『孤独は山になく、街にある。一人の人間にあるのではなく、大勢の人間の『間』にある』といいました。
山の中で一人の時は、里に出れば寂しくない、という希望がありますが、町の中で、大切な人に囲まれていても、わかりあえない寂しさこそ、真の孤独を感じるときです。
釈迦は魂の理解者がいない孤独を『独生独死独去独来』といわれ、酒やゲームや薬物で埋め合わせようとしても埋められない、底の知れない寂しさである、と説かれています。
ところがその釈迦が、その底知れないほど寂しい人生が、無限に楽しい人生にガラリと転回する絶対の幸福があることを明らかにされているのです。
親鸞聖人は、その世界を「無碍の一道」といわれています。