また、日拝と言えば、江戸末期の神道家・黒住宗忠のことが思い起こされます(彼は、数えきれないほど多くの人たちの病を治し、死者さえも、三度、生き返らせたという驚くべき逸話の持ち主です。まさに、生きながら神になった人でした。「そんなバカな…」と思われるかもしれませんが、彼の言行録を読むと、その力は本物であったと思わざるをえないのです)。
ある日、「心は神である」という一句を、室町時代の神道家である吉田兼倶の「神道大意」の中に見つけた宗忠は、「生きながら神になる」という強い志を立てました。
とは言っても、いったいどうしたら神になれるのか…?
宗忠は書物を読みあさり、識者と名高い人たちを訪ね歩き、その答えを求め続けましたが、ついに、明確な答えを得ることができませんでした。
ところが、そんな宗忠に「天命直受」と言われる神秘体験が訪れます。
宗忠33歳のとき、一週間のうちに続けて両親を亡くすという、不幸に襲われました。
その悲しみは筆舌に尽くしがたく、とうとう悲しみのあまり病氣を患い、「余命わずか」と医者に断言されてしまいました。
そのとき、宗忠は突如として思い改めたのです。
「このように不甲斐ない、今の自分の姿を両親が見たら、どんなに悲しむことだろう。自分はとんでもない親不孝をしていたものだ。悲しみのあまり陰氣となり、病氣になったなら、今度は、その逆をすればよいはずだ。日々、面白く生きて、心に陽氣を養えば、病氣は自然と治るに違いない」と…。
宗忠は、毎日の日拝と、お日さまのように陽氣に生きることを心掛けるようになりました。
それから、宗忠の病氣は、どんどん回復の兆しを見せ始めていきます。
その年の冬至の朝のこと…。
昇る朝日を拝んでいると、突然、お日さまから光の玉が、宗忠に飛び込んできて、お日さまと一体となる不思議な体験をしたのです。
その瞬間、宗忠の病氣はすっかり消え去って、彼の全身(全心)は、ありがたさと嬉しさと悦びに満たされました(奇しくも、冬至の日の出の時刻が、宗忠の誕生日です。冬至は一年で最も日の短い日です。その陰極まった日に昇る太陽の光は、一年の中で最もパワーあるものだと言い伝えられています。なぜなら、冬至を境に日はどんどん長くなります。そのため、陰から陽へと転じさせる強大な霊的エネルギーを、冬至の太陽は秘めていると考えられていたからです。だから、冬至には、柚子を冬至の朝日に見立てた柚子湯に入り、一年の無病息災を願うのです)。
そのときの心境を、彼は次のように語っています。以下、「黒住宗忠に学ぶ生き方(山田敏雄著 たま出版 2003年5月15日発行 21P~22P)」より引用します。
「笛を吹いたり、琴や三味線を弾いたり、鐘や太鼓を打ち鳴らして歌い、踊ったりしても、この喜びはとても表現しきれるものではなく、たとえようのないほどのものである。このようなつらい世の中に生きている自分の身に、楽しいことなどは一つとしてないのに、どうしてこんなにも嬉しく、楽しい心になり変わったのであろうかと、われながらあきれてしまった。それからは、何を見、何を聞いてもみな面白く思われて、ものごとの道理すじみちがみなよくわかり、真昼に白と黒を見分けるように、少しも間違うことがない。まるで碁石の白いのと黒いのを引き分けるようである」と。
(引用はここまで)
なるほど、両面宿儺ゆかりの地には、宗忠のように霊的太陽と一体となる秘密が、眠っているに違いない…。
そう確信した僕は、両面宿儺信仰(太陽信仰)の始まりの地であり、両面宿儺が開山したと言われる、袈裟山(位山と呼ばれた山のひとつ)にある千光寺に向かうことにしたのです…。