氣の達人が教える 「悟りゲート」を開く秘密鍵

氣の達人が教える 「悟りゲート」を開く秘密鍵

急性心不全から奇跡の復活を遂げた筆者が発見した「無条件幸福」の鍵を握る「悟りゲート」とは!?
連載記事となっておりますので、2024年3月3日の記事から順番にお読みください。皆さんのイノチと人生を輝かせる宝物のようなヒントが、いっぱい見つかりますように…(笑)。

さて、「鶴と亀が統べった」の説明に入りたいと思います。

 

まずは、次の画像をご覧ください!

ブログ「野球×理学療法士(https://sakuraiku.hatenablog.com/entry/2021/03/15/060000

より引用

 

亀さんがいたでしょう!笑

 

そうなんです。

 

実は、仙骨が亀で(尾骨は亀のしっぽ)、脊髄は鶴を暗示しているのです。

 

「鶴と亀が統べる」=「脊髄と仙骨(&尾骨)がひとつにつながる」ことによって、私たちは籠から脱け出して、再び、私たちの本体であるイノチの世界(=エデンの園)に帰還できるってことです(その時、後ろの正面、すなわち、自分の本体であるイノチの存在にも氣づくのでしょう。なるほど、両面宿儺の後ろの正面も、このことを暗示していたのです)。

 

そして、脊髄と仙骨(&尾骨)をつなげるカギは、命門(へその真裏にあるツボ)にあります。

 

命門とは、その名のとおり、イノチの世界につながる門だったわけです(年をとって腰が曲がると老け込んでしまうのは、そこから氣が漏れてしまうからです)。

 

「楽禅ヨガ」の心得(第四条)に書いた「命門(ヘソの真裏にあるツボ)が食い込むような感覚」とは、「()()中正(ちゅうせい)」によって生じる感覚です。「尾呂中正」は氣功用語で、「尾呂」とは尾骨のことです。「中正」の「中」という字は「◯」に「|」で、しっぽ(仙骨と尾骨)に包まれるように存在するドラゴンボールと中心軸を表しています。「中正」の「正」という字は、「一」に「止」まると書きますが、太極マークが球体になったドラゴンボールをイメージしてみてください。その球体のど真ん中を中心軸が貫いています(球体の中心が「悟りゲート」であり、「一」であり、「太極」なんです。太極拳はその一点から生じるエネルギーを相手に伝えているのです)。そして、中心軸の周りを、陰陽のエネルギー(太極マークの陰陽魚)、すなわち、大宇宙のスピン力が渦巻いているわけです。その「一」に「止」まるという意味が「中正」ですね。

 

ここで重要なことは、ドラゴンボールの上端が、命門とヘソを結ぶラインだということです。

 

上虚下(じょうきょか)(じつ)」という氣功用語もありますが、これは、上半身の余分な力みや緊張が抜けて、丹田に象徴される下半身に力が充実している状態を意味します。スマホやパソコンの普及により、目やアタマを酷使することが多い私たちは、特に、氣が上がりやすい傾向にあります(よく使う部位に氣は流れる性質があるためです)。氣が上がると、地に足がついていない状態となり、ココロも不安定になります。その不安定なココロが、不安や恐れや執着の原因ともなっているのです(「ムカつく」という言葉や、「カッとアタマに血が上る」という言葉も、本来、丹田に納まっているべき氣が、胸やアタマにまで上がってしまった状態を表す言葉でしょう)。

 

だから、命門はいつもグッと食い込ませて、しっかり栓を閉めておかなくてはなりません(命門とヘソを結ぶラインから上に氣を上がらせないためです)。

 

そうすれば、丹田にエネルギーがどんどん集まるようになります。

 

やがて、その凝結したエネルギーはドラゴンボールとなり、その中心に「悟りゲート」は出現するってことなのです。

新たな発見は続きます!笑

 

以前、老師が「日本神話の『古事記』に書かれた神さまは、すべてカラダの中にある」と、さりげなくスゴいことを言われたたことを思い出し、次のような関連性に氣づいたのです。

 

三種の神器の「鏡」は「セントラルサン(大宇宙の中心にある霊的太陽)」を表し(宗忠の神秘体験もそうですね。この「セントラルサン」と一体になって、私たちは(かが)()となるわけです)、「勾玉」は「大宇宙のスピン力」を表し、「草薙剣」は「大宇宙の中心軸」を表していたことに…(そういえば、草薙剣はヤマタノオロチのしっぽから出たのです。やっぱり、しっぽがキーワードなんです 笑)。

 

なるほど、「楽禅氣功」とは、三種の神器を祀る型だったわけです。

 

そして、淡路島にある先山千光寺は「セントラルサン(鏡)」に、飛騨高山にある袈裟山千光寺は「大宇宙のスピン力(勾玉)」に、大阪にある犬鳴山七滝瀧寺の倶利伽羅龍王は「大宇宙の中心軸(草薙剣)」に対応するパワースポットだったと…(勾玉は陰陽魚とも呼ばれますが、両面宿儺も陰陽両面の顔の持ち主ですね)。

 

すると、「飛騨高山の袈裟山千光寺と淡路島の先山千光寺を直線で結べ」というインスピレーションが…(笑)。

 

さっそく、日本地図を取り出して直線を引いてみると…

 

な、なんと…

 

その直線は我が家のある京都市中心部をズドンと貫いているではないですか!

 

三種の神器に対応するパワースポットが、我が家で一直線に結ばれたってことは、いつの間にか、我が家が倶利伽羅龍王さんを祀る神社になってたってこと!?笑

 

まさに、日本龍体に「レイライン」ならぬ「三種の神器ライン」の発動です!

 

さて、新たな発見はまだまだ続きます。

 

なんと、童歌「かごめかごめ」に暗示された鶴と亀の謎まで、解けてしまったのです。

 

童歌「かごめかごめ」の歌詞は、次のような意味深なものです。

 

 

    

かごめかごめ

 

籠の中の鳥は

 

いついつ出やる

 

夜明けの晩に

 

鶴と亀が統べた

 

後ろの正面だあれ?

 

まず、「籠の中の鳥」とは何を意味しているのでしょうか?

 

私たちの多くは、頭の中に自分が閉じ込められているように感じています。

 

それを、籠の中の鳥だと暗示しているのです。

 

でも、その籠は隙間だらけ…。

 

本当はイノチといつもツーツーにつながっているのに、閉じ込められているように私たちが錯覚していることも、暗示していたわけです。

 

仙道家の島田明徳さんの「病の意味(地湧社発行)」には、イノチについて、次のような文章が書かれています(心不全になったおかげで出会えた本です 笑)。以下、該当部分を引用します。

 

心臓は誰が動かしているのでしょう? 普段こんなことは考えたこともないと思いますが、ここで真剣に考えてみてください。心臓を動かしているのは、自分自身でしょうか? それとも自分以外の「誰か」が動かしているのでしょうか? もちろん、自分以外の「誰か」が自分の心臓を動かしているなどということはありません。けれども、自分が自分の意志で心臓を動かしているわけでもありません。自分のはずだけれど、自分という自覚はない『何か』が心臓を動かしているのです。

(中略)

自分の身体のことを、私達は自分の身体だと思っていますが、この自分の身体のことを自分自身がほとんどわかっていないのも事実だと思います。自分で動かせる部分、つまり、自分の意志が及ぶ部分に関しては、自分の身体と言うこともできるでしょうが、幸か不幸か、私達の身体のほとんどは自分の意志で動かすことができません。身体のほとんどの部分が自分の意志では動かせないにもかかわらず、自分の身体と思っているのは、何か変な感じがしませんか。「自分の身体」と言うには、あまりにも身体をコントロールできなさすぎるのです。自分の心臓のはずなのに、自分の意志で心臓を止めたり動かしたりできませんし、内臓の働きも血液の流れも、自分の意志ではどうすることもできません。

(引用はここまで)

 

このような、自分のカラダとは言えないようなカラダ自体のもつ働き、この働きが私たちを誕生させ、維持し、生かしている(存在させている)と、島田明徳さんは言います。

 

その「働き」が、「イノチ」であり「神」なんです。

 

私たちは、自分という意識が芽生える前も、丸ごと全部、イノチに支えられて生きてきました。今の僕も、その時の僕とまったく変わらないのに、いつの間にか、自分一人だけの力で生きているように、勘違いしちゃってるわけです(汗)。

 

もう一度、私たちを根っこで支えてくれているイノチとつながり、個の意識(人意識)と全体意識(神意識)が融合した新たな視点(神人合一意識)を獲得することが、全人類に課せられた使命でもあるのでしょう。

 

私たちが全体意識から離れたのは、退化でなく進化だった…。

 

エデンの園からの追放は、原罪ではなかったのです!

さて、「楽禅ヨガ」の説明に入る前に、皆さんにお伝えしなければならないことがあります。

 

実は、老師が呉式太極拳の全伝をマスターしたとき、秘伝の巻物を授けられたそうなのです。

 

その巻物には、いったいどんな秘伝が書かれていたのでしょうか?

 

老師いわく、「巻物には『坐』という一文字だけが書かれてあった」と…(笑)。

 

その話を聞いて以来、この「坐」という一文字が、僕のアタマから離れることはありませんでした。たしかに、立っているけど、坐っているような感覚(丹田の浮遊感覚)というのは、氣功の極意なのです。たとえるなら、上半身が人間で、下半身が馬のケンタウルスになったみたいな身体感覚です(笑)。これは、太極拳や合氣道の達人の人間離れした安定感の秘密でもあるのです。


しかし、そのことだけを伝えるために、わざわざ「坐」という一文字を、書き残したのでしょうか…。


僕には、もっと深いメッセージが隠されているように感じていたのです。


ところが、先山千光寺で「楽禅ヨガ」の全容がダウンロードされたとき、「坐」の一文字で伝えたかったことは、まさに、コレだったことを理解しました。


つまり、「坐」の一文字は、時空を超えて僕に語られたメッセージだったと…。


その一文字には、「楽禅ヨガ」の型のすべてが秘められていたのです(「楽禅ヨガ」は、準備功、基本功、応用功の3つの氣功法で構成されています。ここでは、基本功のやり方を説明します)。


楽禅ヨガ(基本功) 横から

 

楽禅ヨガ(基本功) 後ろから


「楽禅ヨガ」の心得 七ヶ条


第一条
しっかり座り込んで、その座り込む力で腰を立てる(背筋をまっすぐに伸ばす)。


第二条
背伸びするように、〇〇下を伸ばす(◯◯部分は後述します)。昔からの教えに「お尻の下に紙一枚を入れよ」とありますが、イスから立ち上がろうとする直前の姿勢で(そのとき、お尻の下に紙一枚入れた感じになります)、背伸びするように〇〇下を伸ばすのです。


第三条
後ろに組んだ両手の甲に、後頭部を軽く押し当てる。


第四条
アタマのてっぺんから糸で吊り上げられているイメージを持つ。かつ、その糸にぶら下がるイメージで脱力していく。


第五条
両肩甲骨の間をしっかり広げる。


第六条
そのときのお腹の固さ(神の圧力)をチェックする。命門(ヘソの真裏にあるツボ)が食い込むような感覚も生じるはずです。


第七条

 各自、内観力(補足参照のこと)を深めながら、日々、神の圧力がより高まるように工夫する(象徴伝達は、一つを深めることに基づき、その体得には、同じ一つの型に無限にふれ、無限に体感する必要があるからです)。


~補足~

僕は、老師から内観の大切さを教わりました。内観には色々な意味がありますが、老師の言う内観とは、カラダの内側に意識を向けることです。僕は20年以上(今もなお)、この内観力を高め続けています。僕が合氣道の不思議な技をたった一年で使えるようになったのも、内観力のおかげだと感じています。その証拠に、三十年以上も稽古に励んでいた兄弟子は、合氣の極意をつかめないままだったのです。内観力が高まってくると第六感が覚醒し始めます。すると、相手のパンチが来る前に、相手の意識(氣)が先に向かってくるのも、分かるようになるんです。その相手の意識(氣)に技をかけるのが、本当の合氣です。ということは、向かってくる相手の氣が弱ければ、鮮やかに技もかかりにくくわけです。だから、合氣道開祖の植芝盛平は、わざと相手を挑発することを言ったりしたのです(笑)。あえて、「第二条 背伸びするように、◯◯下を伸ばす」と、○○部分を伏字にしましたが、〇〇部分にどんな言葉が入るのか、ぜひ、「楽禅ヨガ」の型に教えてもらってみてください(笑)。正解した方は、相当な内観力の持ち主です(◯◯部分は後述します)。


「楽禅ヨガ」の型の中には、無限の情報が込められているので、到底、本には書き切れません(笑)。好奇心を刺激された方は、ぜひ、僕のセミナーに参加してみてください(「悟りゲート」体得の前提条件である中心軸の貫通が、このセミナーで達成されます。とは言え、毎月10名ちょっとしか指導できないので申し訳ないです。氣の詰まりを根こそぎ解消する「中心軸氣功整体」に、尋常ならざるエネルギーを必要とするためです)。

令和5年6月7日のミロクの日…。

 

この日に、大いなるイノチの源泉と私たちを結ぶ型(象徴)として、また、ミロクの世(世界平和)の礎として、この氣功法が授けられたことも理解しました(以降、この氣功法のことを「(らく)(ぜん)ヨガ」と表記します。補足参照のこと)。

 

~補足~

「ヨガ」とは、サンスクリット語で「つながり」を意味します。また、「禅」という漢字は、「単」に「ネ」で成り立っています。「ネ」は礼拝している姿を表しています。つまり、単純なものに礼拝する姿を表しているのです。もちろん、単純なものとは「悟りゲート」のことです。その大いなるイノチの悦びのエネルギーにつながると、無条件に、ありがたく、面白く、楽しくなってきます。そして、ますますイノチが光り輝くようになるから、「楽禅ヨガ」と名付けたのです。

千賀さんも「象徴伝達は、一つを深めることに基づく。その体得には、同じ一つの型に無限にふれ、無限に体感する必要がある」と言われているように、このシンプルな「楽禅ヨガ」の型に、無限に触れ、無限に体感する必要があるのです。

 

というのも、「悟りゲート」こそ、無限につながるゲートでもあるからです(詳細は後述します)。

 

さっそく、「楽禅ヨガ」を実践してみると…

 

まるで、生き物のごとく、龍のごとく、強大なエネルギーが僕のカラダの中を渦巻き始めたではないですか!

 

前述の宗忠は「神は生き物である」と言いましたが、本当に生き物であるかのようにうごめくリアルな神のエネルギーを体験できるのです。

 

そのリアルな神のエネルギーは、球状にどんどん張り出しながら、かつ、どんどん凝結していきます。

 

まるで、ドラゴンボール…(まさに、生ける龍のように渦巻くエネルギーの球だから、ドラゴンボールです 笑)。

 

そういえば、20世紀最大の神秘家の1人、ダイアン・フォーチュン女史の名著「神秘のカバラー(国書刊行会発行)」の中に、彼女がある偉大な人物に言われたという秘密の言葉が書かれています。

 

それは…

 

「もし神とは何かを知りたいとすれば、ひと言で語ることができる。神とは圧力なのだ」

 

という言葉です。

 

何が言いたいのかというと…

 

このドラゴンボールこそ、神の圧力の正体だってことです。

 

先ほど、「しっぽ(尾骨と仙骨)に包まれるように、聖なる中心はある」と書きましたが、↓の図が、人間のしっぽ(尾骨と仙骨)部分です(笑)。

ブログ「野球×理学療法士(https://sakuraiku.hatenablog.com/entry/2021/03/15/060000)

より引用

 

このしっぽ部分に包み込まれるような大きさのドラゴンボールをイメージしてみてください。その中心に「悟りゲート」はあるのです。

 

ドラゴンボールの内側では、膨張する力と凝結する力が拮抗しながら、ものすごい圧力を生み出しています(ドラゴンボールのエネルギー密度が高まれば高まるほど、その聖なる中心もどんどん活性化していきます。そこに「悟りゲート」が出現するわけです。「悟りゲートが開く」と「悟りゲートが出現する」は、同じ意味だとお考えください)。

 

ドラゴンボールの中には、神なるエネルギーがはち切れんばかりに詰まっているのです。

 

そういえば、神主が神社で唱える祝詞の中に「高天原に神づまります」という言葉がありますが、それは、この状態を表現したものだったんですね…(高天原とは腹、すなわち、氣海丹田のことです)。

 

そんな神の凄まじい圧力を、「楽禅ヨガ」を実践するだけで、誰でも簡単に体験することができるってことなんです(補足参照のこと)!

 

「悟りとは 悟らで悟る 悟りなり 悟る悟りは 夢の悟りぞ(本物の悟りとは、悟ったなどと思わないで悟るものであり、 悟ったなどと思っているような悟りは、偽物の悟りだぞ…という意味)」という古歌がありますが、この神の圧力を失わないとき、悟ったなどと思わなくとも、そこに悟りはあるものなのです。

 

~補足~

白峰先生いわく「シャンバラは聖なるオーブの塊、エネルギーのプラズマ球で、その中心にセントラルサンはある。それを、神道では『中今(なかいま)』と言う。『中今』とは、過去・現在・未来を超越した永遠の時の流れの中心点のことだ」と…。つまり、「ドラゴンボール」=「シャンバラ(エネルギーのプラズマ球)」で、その中心に「悟りゲート」=「セントラルサン」があると言えるでしょう。やはり、宇宙はカラダの中にあるのです…。

 

 

そういえば、長沼敬憲さんの「心と体を変える底力は腸にある 腸脳力(BABジャパン発行)」という本にも、次のようなことが書かれていたことを思い出しました。以下、該当部分を引用します。

 

実際にイメージしてみればわかりますが、私たちは「胸」や「腹(腸)」で感じることはあ っても、これらの部位で悩んだりすることはありません。悩む主体はあくまでも「脳」にあります。体の感覚としてとらえれば自明のことであるはずですが、人は数億年にわたって 脳を特異に発達させてきた結果、どうしても「頭で考える」ことに囚われ、それが自分そのものであると思い込んでしまう傾向にあります。仏教の世界では、こうした脳に意識が偏った状態を「無明」と表現していますが、これは要するに「体を持って生きていることを忘れてしまった」「体のなかから脳だけが分離されてしまった」状態であると言うことができます。体は自然の一部であるわけですから、体から脳が分離されているということは、脳だけがこの世界から孤立していることを意味します。こうして生きているのに、生きていることが実感できない。もしそうした感覚があるのだとしたら、それは「脳」という檻の中にあなたの意識が閉じ込められてしまっているからでしょう。この無明から抜け出すには、脳にばかり意識が偏った「頭でっかち」の状態に気づき、「意識の中心を肉体の中心に重ね合わせる」必要があるでしょう。それが座禅することの意味であり、この中心を重ね合わせる練習を繰り返す中で「直感の回路とつながる=悟る」という体験が得られることになります。

(引用はここまで)

 

「意識の中心を肉体の中心に重ね合わせる練習を繰り返す中で『直感の回路とつながる=悟る』という体験が得られる」と書かれていますが、長沼敬憲さんも「その肉体の中心はしっぽにある」と、この本で述べているのです。

 

「悟り」は「差取り」だと、よく言われます。

 

たしかに、豊かな人と貧しい人、美しい人と醜い人、大卒と中卒、背が高い人と低い人、太った人とスリムな人、人氣者と嫌われ者、健康な人と病弱な人など、私たちはあらゆる物事の間に差を作っています。その差が、悩みと苦しみの原因なのだから、その差を取ることが悟りだというわけです(たとえば、国と国の間に国境という境界線を作り出してしまうから、境界線をめぐって、政治、経済、軍事などの争いが生まれます。自分と他人という境界線を作り出してしまうから、そこに人間関係の葛藤も生まれます。差を作ることは、境界線を作ることなのです)。

 

でも、いざ差取りを実践しようにも、差に溢れた世界、いや、あらゆる物事が差で成り立っている世界で、そんなことができるわけがないでしょう(汗)。

 

そうではなく、悟りとは、聖なる中心との差(ズレ)が取れたときに、自ずから実現するものだったのです…。

 

その一点を体得できたとき、思考は勝手に消えています。

 

そのとき、ジャッジする(差を作り出す)自分も消えているのです。

 

悟りとは、聖なる中心を体得した結果、引き起こされる精神的・身体的変化にすぎなかった…(だから、悟りを求めると、悟りから遠ざかると言われるのかもしれません)。

 

聖なる中心こそ、悟りへと通ずるゲートだったのです(以降、「聖なる中心」のことを「悟りゲート」と表記します)。ならば、悟りという結果をもたらす原因、すなわち、カラダの中にある「悟りゲート」に、意識を向けるべきでしょう。

 

だから、坐禅もカラダを重視します。

 

坐禅という型の目的も、この一点の体得にあったわけです(その一点から、上下に引き裂かれるように、天地を貫くエネルギーが立ち上がります。それが中心軸です。坐禅で、背筋をまっすぐにすることが重視されるのも、その中心軸上に「悟りゲート」が存在するからですね。「悟りゲート」の体得には、中心軸の貫通が不可欠なのです)。

 

でも、その目に見えない一点を、言葉で伝えることが、とてつもなく難しいのです。熱い感じ、寒い感じ、甘い感じ、辛い感じ…。その感じをいくら言葉で説明したって伝わらないでしょう。もし、その感じを伝えたいなら、暑い夏、寒い冬、甘い佐藤、辛い唐辛子を、体験させたらいいのです。

 

だから、坐禅という型で、その一点を体験させようとしたわけです(ただし、その外側だけをどんなに正確に真似てもダメなのです。その型の奥、すなわち、カラダの内側を真似ることができなければ…。詳細は後述します)。

 

さて、鹿の群れを率いる一頭の神々しい猪に出会ったと書きましたが、実は、その猪に化身した千手観音さまから、秘伝を授かったのです!笑

 

どういうことかと言いますと…

 

突然、稲妻が突き抜けたかのごとく、「悟りゲート」を開くための、まったく新しい氣功法の全容が、一瞬で、理解されてしまったのです。

 

このことについて書こうと思えば、分厚い本の5、6冊は軽く書けてしまうくらい…。そんな大容量の情報が、僕のアタマに一括ダウンロードされたのです。にもかかわらず、それは、とてもシンプルな氣功法でした(老若男女問わず、誰でも簡単にできるイスを使った坐禅法です)。でも、その型の奥には、無限の情報が込められているというか…。

 

前述の千賀さんの本には、次のような文章が書かれています。

 

「象徴伝達の世界においては、複雑化へと向かう言語伝達とはまったく対照的に、たった一つからすべてを伝達することになる。一を極めることによって全体性を学ぶ。これは、あなた方の閉ざされた超感覚を開く道なのだ」

 

「あなた方の社会の歪みを、根本から是正するための最大の近道は、象徴伝達の文化を復活させることだ。これこそが、遠いようで、最も近い調和社会への近道なのだ。あなた方日本人は、やがて実際に象徴伝達の文化を復活させることになるだろう。そしてその復活が、人々の新たな能力を開かせ、新文明を誕生させる具体的原動力となるだろう」

(引用はここまで)

 

言語伝達とは、バラバラの個人が存在するという人間観に基づいています。だから、どんなに論理をたくましくしようが、社会制度を変革しようが、世界から争いが消えることはなかったのです。

 

そのバラバラな人間観自体に、争いの原因があるのですから…(自分と他人の間に境界線を作り出してしまうからですね。それ以前に、言語自体が、善悪、美醜、長短、大小などの境界線を作り出すことで成り立っているのです。「分かる」とは「分ける」ことなのです)。

 

一方、たったひとつからすべてを伝達する象徴伝達とは、各自が、イノチの根っこにある「One=All(ワンネス)」につながるということ、すなわち、「悟りゲート」につながるということです。その「One=All(ワンネス)」を媒介とした伝達方法を、象徴伝達と言っているのです(だから、「One=All(ワンネス)」の人間観に基づいた象徴伝達が、調和社会への最大の近道となるわけですね)。