昔は酒が高かったらしい。

土方の日当と酒一升の値段がほぼ釣り合っていた話を聞いたことがある。

だから大酒飲みと結婚した女性は苦労が絶えなかったとか。


今は振る舞い酒を喜ぶ人間は少ないと思うが、それ故にお酒飲み放題の結婚式とか上棟式、お葬式となれば、ここぞとばかり深酒する人間もいたようだ。

酒を殺して飲むひともあまりいなくて、それは貴重な酒を飲んだのだから酔わなくては損だという意識が働いていたようにも思うのだが。


今はとんと見ないが、路上を肩を組みフラフラ歩きのヨッパライの姿というのも珍しくなかった。

それは時として父だったのだが。


戦争があり、食べ物飲み物すべてに窮した時代のあげくのこと。

食べ物の溢れる今に生きる人間が、その品の無さを指摘してはいけないことなのだろう。


盆とか暮とかの清算時に、常さんという炭焼きさんが燗酒を目を細めてうまそうに飲む姿、忘れられない。

私の幼い頃は第二次世界大戦が終決してから10年ほどでしたから、しばしば戦時中の話題が出ていました。

おおむねは食糧難の話題でした。

カボチャばかりで飽きてしまった話とか、ご飯にいろいろな混ぜものを入れた話とか、そんな話のおわりには必ず食べ物のある今が幸せだと言う結論になり、だから食べ物を粗末にしてはいけない、という教訓に続くのでした。


どんな話の流れなのか、父が突然、防空壕を掘ろうかと言い出した時がありました。

たぶんアメリカの水爆実験の報道にでも刺激されたのかも知れません。

母がバカバカしいといった顔をしているのを見て残念な思いがしたのを覚えています。

当時、あちこちに防空壕のような横穴があって子供達の好奇心の対象になっていたのです。

ですから、自前の防空壕があったら楽しいだろうと思ったわけです。

実際のところ横穴が防空壕だったのか、単に野菜の貯蔵庫だったのか、はっきりしたことは知りません。


正月、父の取引先の人達を集めての新年会が我が家でおこなわれ、酔った大人達がよく歌うのが軍歌でした。

流行歌もありましたが、軍歌は合唱するのに調子が良かったのかも知れません。

子供の私にはただ騒がしいだけでしたが。


数えてみれば今年は終戦から64年目にあたります。

それほどの年月が過ぎても、この国はまだあちこちにあの戦争の後遺症をかかえているのが現状のようです。

争いが残すものは人を幸せから遠ざけるものばかりのようです。

戦争という政治手段がいつか、この地球上からなくなることを願わずにはおれません。

今は誰が注意しなくても子供は道路で遊ばない。

常識である。


だが、私が幼い頃の道路は立派な遊び場だった。

舗装はされてなかったので蝋石で落書きはできなかったがビー玉、メンコ、石蹴り、バリエーションは豊富だった。

大人達も道路で畳を干していたりする。

二枚の畳をお互いに寄りかからせて道路に敷いた棒きれの上に立てておく。

話の説明に窮すると表に出て、道路にクギで地図などを描いたりもする。

めったに自動車など通りはしないのだ。


山仕事の人間が佐々木小次郎の様に木挽き用の鋸を背にくくりつけて歩いていたり

牛車や馬車がフンを落としながら通ってゆく。

馬車が来ると竹箒を手に悪童どもが馬の背後に近づいていく。

馬の尻尾に竹箒をからめて尻毛を抜くのだ。

馬の毛を撚って小鳥用のワナをつくるのだ。

馬喰に見つかれば追いかけられるので

馬の毛を引き抜くと同時に箒を担いで駆け出さねばならなかった。


雨が降ればぬかるみ、晴れれば砂埃が舞った道路はアスファルトのおかげで快適な道になった。

車が多すぎて道路で遊ぶわけにはいかないが、なにどうせ子供などめったに居はしない。

居たとしても遊ぶ場所は家の中。