なぜキリスト教の神は人に試練を与えるのか | イタリア田舎生活

イタリア田舎生活

北イタリアの田舎町で息子(17歳)との生活日記。
日々の生活を通して見たこと、聞いたこと、感じたこと、神様のこと

ネット上で見かけた質問

 

「なぜキリスト教の神は人に試練を与えるのか」

 

色んな人がいい加減な事を回答として書いていたので、

なんだか我慢が出来なくなり、

私なりに回答してみました。

 

クリスチャンでもそうでなくても

人生、悩みごとだらけ。

小さな悩みを含めると、同時進行の悩み苦しみは

両手の指では数えきれないほどかもしれません。

 

そして、不意を突いて襲ってくる大きな試練。

 

どうして私が? 家族が?こんな目に?

こんな理不尽なこと!

この先どうしよう…

私は何にも悪くないのに…

 

本当に辛い、苦しい思いをし、

出口が見えない真っ暗闇の中に放り込まれ、

何をしていいのかもわからない…

時には人を恨み、自分を恨み、

引きこもってしまったり…

 

こんな私の思いは誰にも理解できない。

友達に相談しても、とんちんかんなことしか言ってくれない。

誰も私の事わかってくれない!

 

本当に辛い出来事を経験することがあります。

 

でも、神はどうしてこのような出来事を私達に起こされるのでしょう。

 

まず、私達クリスチャンは、

 

「神はよい方で、私たちを愛して下さっている」

 

という聖書の教えを信じています。

 

その上で、神は私たちに与える試練を通して、

「何か」を私達に語ろうとされていると考えます。

 

苦しみや悲しみ、傷つくことによって、神に向き合います。

神に助けを求めます。

なぜならそうせずにはおれないから。

 

苦しみを一人で抱え込むとそのうち鬱になってしまいます。

一人で考え、答えがでず、よりネガティブな考えに陥ってしまいます。

信頼できる家族や友達に愚痴を聞いてもらうと

気持ちが少し楽になりますよね。

でも、すぐに気持ちは塞ぎ、悩みのサイクルに戻ってしまう。。。

 

私達は一人で乗り越えられないような試練でも、

神が慰め助けてくださると知っています。

ですから、とにかく話に行くのです。

神様に。

 

そうすると、「何か」を語って下さるのです。

ではその「何か」とは何なのか。

 

ざっくり言いますと、

「今まで確固としていた自分の考えや思いが実は誤りであったと気づかせ、

方向転換を促すもの」

ではないかと思うのです。

 

ポイントは、私たちが神の言葉により頼むという行為

そうすると必ず応答してくださいます。(これほんと。)

 

苦しみの中、どん底にいる時、神の言葉は一層真価を発揮するように思います。

試練を通して、神様は私たちを招いておられる。

そして伝えようとされている。

 

ある時は、永遠かと思うほど長い間沈黙を保たれ、

苦しみがつづき、

「もうだめ、ほんと、もうだめ!」

と叫んでしまいそうになる時もありますが、

神様はあなたの忍耐力をよくご存知です。

 

必ず試練が益となってかえってきます。

 

神様のご計画は私達には全く想像できないものです。

でも、必ず素晴らしいご計画を私達一人一人に用意して下さっていると確信します。

なぜなら

 

「神は愛」 で、「主はよいお方」

 

だからです。

 

神は私たちを訓練され、

神によって練られた品性を身に付けさせるために試練を与えられるのです。

それは、神様の愛から出ていることなのです。

 

私も今、試練の中にあります。

主に訓練されています。

訓練しようと今この時をいただき、感謝です。

辛く、涙を流すこともありますが、

上記のことは自分へのメッセージでもあります。

 

この試練の先に希望を持って

神様の日々の語りかけに耳を澄ませ

今日も歩もうと思います。

 

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