【舞台演出家 小池博史ロングインタビュー その5】 | 小池博史ブリッジプロジェクト公式ブログ

小池博史ブリッジプロジェクト公式ブログ

小池博史ブリッジプロジェクト公式ブログ
稽古情報や制作の日記などを書いていきます。

【舞台演出家 小池博史ロングインタビュー その5】


小池博史が永遠の憧れをもつ国 メキシコ
小池の著書『新・舞台芸術論 21世紀風姿花伝』には、メキシコの詩人、批評家、外交官であるオクタビオ・パスのこんな言葉が書いてあります。
 

「メキシコ人は、インディオにもスペイン人にもなりたくない。彼らの子孫であることも望まない。彼らを否定する。そしてメスティソとしてではなく、人間であるという抽象として活気づくのである。無の子となる。彼は自分自身から始まるのである・・・」
 

今回は小池博史とメキシコについて。そして、東京という場所で作品を作り続けていることについて聞いてみました。

【interviewer kazue】
 

 

********

Q:メキシコの文化のどんなところにひかれますか
 

・・・・・・・
 

「歴史の断層を感じないことかな。あとはいろんな国の侵略も受けてきているんだけど、みんな明るいんだよね。あの明るさは何なのかなと。

あとは“死者の日”という日があって、この日が近づくにつれて街中が骸骨であふれかえるんだよ。彼らは死を内在して生きている。つまり、生きている人間はすでに死をはらんでいる。最初から死を取り込んでいるのに、ものすごく明るい。それは音楽もそうでね、もの悲しさと同時にとても明るさがある。

それはもともとメキシコ人が持っている力みたいなものなんだと思うんだけど。
メキシコの文化というのは外からくるものを疑わずに、招き入れるというところがあって、でもそうであったがゆえに滅ぼされてしまったのだけど。つまり、侵略者を受け入れてしまったから。
 

でも、オクタビオ・パスの言葉にもあるけど結局は“自分はどう立っていくか”ということをメキシコ文化は言っているんだよね。それに僕自身も共感するんだよ。
受け入れつつも否定する、否定しつつも受け入れる、さらに自分自身として立つ、という。
 

例えば今のこの時代。ものすごく恥ずかしい時代に生きていると思うんだよ。でもそれを受け入れて、その中で自分ができる最大のことをしていくしかないんだよね。

そして死を内在しながら生きるということ。生まれて最初から死があって、その上で自分自身というものをどこまで貫いて生きることができるか。人との調和を保つのではなくて、常に自分はどう在るかということではないかと。そういうことをメキシコ文化から感じ取ったんだよ。」



Q:以前に、時代の推移を東京という場所で定点観測していきたいということを話していましたね。
 

・・・・・・・
 

「どこに視点を置いていくかで見るものが全然違ってくると思うんだ。だたクリエーションをやるだけなら東京にいないほうがいいと思うんだけど。

でも、クリエーションって何かと言えば、作品を作れればいいということではなくて、社会との接点の中でどのようなものを作っていくかなんだよ。

僕はパパ・タラフマラを解散して、そのあと震災があり、宮沢賢治シリーズやマハーバーラタシリーズをやり出した。それは、この東京という場所にいなければやらなかったと思うんだよ。それは、どういう時代を経てきたか、ということと大きく関わってきてね。
 

例えば80年代、90年代、2000年代の日本はどんなふうだったか。
そのプロセスの中で3.11があって、僕自身も新しい方向を目指した。それはただ苦しいとか楽だとかいうことではなくて、あくまでこの時代の波やこの土地自体が持っていた力との関係だったり、そういうものを感じながら制作してきたんだと思う。この東京という場所でなければできなかったんだよ。」