【演出家 小池博史ロング・インタビュー その8】 | 小池博史ブリッジプロジェクト公式ブログ

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【演出家 小池博史ロング・インタビュー その8】
 

2月に行われた演出家 小池博史へのロング・インタビュー

1982年に小池が立ち上げた「タラフマラ劇場」時代の舞台創作のことを知る人から貴重な話を聞くことができた。

小池博史ブリッジプロジェクトの制作として働いている瀬戸さんは、1985年パパ・タラフマラの前身タラフマラ劇場の舞台作品『海辺のピクニック』に出演、そのとき体感した作品の印象をこんなふうに話された。
 

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瀬戸:「私が出演した作品はそれ以前から比べると整頓された感じになっていたと思うんです。以前の作品はもっとどろどろしていて、例えるなら直接げんこつでぐりぐりぐりっというような感じの作り方をしていて。出演している人たちがまともな神経をしているのかどうかもわからないような、そんなエネルギーで。そして舞台もまっくらな中でやっていたり、水の中でやっていたりして。そう、『壊れもののために(1982年)』という作品がもうすさまじい舞台で」

 

 

1982年タラフマラ劇場の旗揚げ公演『壊れもののために』では、劇場として借りたスペースに勝手に小池が水を撒いて床を水浸しにするという演出をした。

ガルシア=マルケスの「百年の孤独」を目標に舞台作品創作を模索していたことから、四年十一か月と二日降り続いた雨が作ったぬかるみを表現したかったという思いがあった。

 

瀬戸:「小池さん、あれはよく貸主から許可が出ましたね」

小池:「いや、勝手にやった」

瀬戸:「わははは。でも私はそういうことがうらやましいなと思って。そのあと自分でもやってみたくて、そういう舞台演出を提案したら関係者に“何、言ってんですか”と言われました。小池さんはよくそんなことをやったなと。」

 

 

翌年1983年に上演された『タイポ~5400秒の生涯』(初演:アートシアター新宿)は、人生の長さを秒数で表した数字をタイトルにした。秩序と無秩序をテーマに、意味のない秩序で維持されてきたものが崩れゆくさまを描いた。小池はこの時のことをこう話している。

“初期のメンバーは最後までここでやるという思いで繋がっていました。そのようなエネルギーの塊を、舞台にぶち込んだ作品です。言葉をデザイン化したり、空間全体を熱溜まりみたいにする、という意味では・・・・・・”

1987年公演『熱の風景』(初演:バウスシアター)になると、その混沌とした要素は取り払われ、清々しく美しい世界観の作品になっていた。

“この作品より前は熱い紐帯で結ばれたメンバーたちを追い込んで演出してしまいました。そのうち人間関係はギスギスしてきて、こりゃ駄目だと思った。そこで発想を切り替えこれまでの方法論を捨て、その紐帯を一度解き放ちました”と小池は話している。

(インタビューは芸術新聞社「art top」2007年11月発行より)

 

小池作品の演出を物語る上でその背景としてあるものには映画や音楽、建築や海の向こうへの憧れなどがあった。そしてさらに、東京へ上京してから観た状況劇場の舞台もまた、少なからず影響を与えた。

1960年代に活躍していた唐十郎氏が率いる状況劇場のテント芝居を小池はときどき観にいっていた。そのときの印象を著書「新・舞台芸術論」の中でこのように書いている。

 

“大地に立てられたテント内、地面に敷いたムシロ上に観客は身動きできないほどギュウギュウに押し込まれ、舞台上から水は掛けられるわ、唾は飛んでくるわ、快適性とはほど遠い。そうして最後に舞台背後のテント生地がグワッとめくれ上がるとクレーン車の回転するシャベル部分に跨って俳優が叫び、その向こう側にはネオン瞬く大都会が静けさを湛えながらカタルシスが襲ってくる、荒々しい祝祭性とともに全身体で感じざる得ない舞台”だった。

唐十郎が演出した新宿・花園神社でのテント芝居は、唐が寺山修二から入団するよう誘われた電話でのやり取りから想を得たという。寺山がサーカスのように移動する劇団を作る、と話したことからひらめいたのがテントだった。

 

 

小池:「俺の場合はかつて直径2メートルくらいの、でかいおっぱいを舞台装置として作ったことがあったなあ。演者はそのおっぱいにつぶされるという(笑い)」

瀬戸:「それは夢か何かでみたんですか?それともそういう願望?」

小池:「超ばけもの巨乳。巨人の国のおっぱいにつぶされる男みたいな」

瀬戸:「それはやっぱり夢?願望?」

小池:「夢で見ねえよ、そんなの(笑い)」

 

“こんなことをやりたい”と思う一種の衝動のようなものを具体的に作品に興している。自分の作品性は曲げない、アーティストとしての姿勢は誰に対しても絶対に変えないで小池はやってきた。そしてそれはとても具体的な、資金調達などを含め綿密な計画の上に成り立っていた。

 

小池:「いや、それは当然でしょ。そういうことをちゃんとしてなかったら35年以上もきついなんてもんじゃない舞台創作なんてできないですよ」

 

 

写真:上 1968年 拠点にしていた新宿・花園神社を追われた状況劇場は、新宿東口に7トントラックで乗り付け「トラック劇場」なるゲリラ戦術に出た
(都市出版 「東京人」2005年7月 216号より)

写真:下 1983年公演「タイポ~5400秒の生涯」
(芸術新聞社「art top」2007年11月発行より)