『眠られぬ夜のために⑴』八月十七日: | 真田清秋のブログ

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 『「ヘブル人への手紙」四の九🌟について、実際、今日のような騒がしい、全般的に落ち着きのない時代においても、そのような人々(神の民)には、常に安息がある。しかし彼らにとっても、働いたり務めに従ったりするように定められている時には、安息は与えられない。そんな場合に、時ならぬ休息を望んだりすると、かえって心の安らぎを失い、そればかりか、時には、最高かつ最善の事を怠るようになる。

 ルカによる福音書二二の四六。

 およそ安息は神から贈られたものでなくてはならない。あなたが勝手に安息を取ってはいけない。老年においても、さらに病気の時でもそうである。しかし、一般に命じられており、たいてい今日では誰にでも許されている休息、すなわち、夜半前からの眠りと日曜とを、一貫して利用しなさい。これは、十分な休養感を得るのにたいへん役立ち、また、そのうえ神の祝福が与えられる。そうでなくて、あまり休みすぎたり楽にしすぎたりすることも、働きすぎたり焦ったりするのと同様に、疲労の種になるものだ。

 「暇な時間」や「休暇」も、何か無駄なことや、それどころか時には有害なことを行うためにあるのではなく、むしろ心身のためによい事をするためにあるのだ。人の一生は、その大部分を全く無駄に過ごすには、あまりにも短い、よい目的も意味もない楽しみ、そればかりか、悪い結果をさえ伴うような楽しみは、楽しみとはいえない。ベンジャミンフランクリンは実にズバリとこう言っている。

 「余暇とは、何か有益な事をするための時間である。」

  同胞教会讃美歌六八八番。

 

 マルコによる福音書九の一四ー二九。癲癇(てんかん)の子供の父が、その頃起こりかけていたキリスト教(この教えは、後で述べる理由から、弟子たちの伝道ではまだ彼の父の心にあまり強く訴なかった)に対する初めの不信にうち勝ってから、最後に言った言葉(「信じます。不信仰な私をお助けください」)は、本気でそう言おうと思えば、誰にでも言える言葉である。それをも言いたくなければ、とうてい救いようがない。反対に、このわずかな信仰でもありさえすれば、神の奇跡を体験することができよう。

 しかし、これらの弟子たちに対して、さらにまた現代の説教師たちーー彼らはほとんどあるいは全くなすところがなく、しかもその責める「時代の不信な精神」や「社会主義」やその他の色々なものに負わせるーーに対しても、主は彼らに何かまだ欠けているかを、はっきり告げられている。絶え間ない神との交わり(単に時々ではない)、すべての享楽とあらゆる種類のエゴイズムの完全な断念、これこそがあの当時と同じように現代においても、我々人間の内に働く神の力の秘密である。このことを彼らーー聖職者たちーーは、まさになさねばならない。それができなければ、彼らのあらゆる活動は無益である。「この世に君」(サタン)はなおも彼らを嘲笑うであろう。そして、それが当然である。

 🌟「こういうわけで安息日の休みが、神の民のためにまだ残されているのである。」

 🌟🌟 「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らないように、起きて祈っていなさい。」』

 

 

             清秋記: