カール・ヒルティ、『幸福論②』・「人生の段階」三四六頁以下: | 真田清秋のブログ

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 『このような老年の特徴は、その円熟である。それは決して思い上がった「神聖」ぶりではない。我々がこの地上で達しうる聖なる境地とは、ただ、ただ神の意志と完全に一致し、神の意志に従う完全な心構えが出来ている状態であり、従って我々自身の内には、もはや善と悪との真剣勝負は存在しないという状態である。なお、中世のある聖女は、聖なる境地が本物であれば、その人の外部をも整えるものだと言っている🌟が、まったくその通りである。なぜなら、神は「秩序の神」(コリント人への第一の手紙一四の三三)であって、何らかの変わり者を好むことは決してないからである。とりわけ、外的な事物での風変わりに対してそうである。そうした奇を衒うような「聖者🌟🌟」は、まったく贋物ではないにしても、まだ未熟な聖者であることは確かであって、だかた、そういう人達と共に暮らすのは必ずしも楽ではない。けれども、老年のこの最後の段階になっても、その人の宗教が、せめて人と楽しく暮らすだけの助けにもならず、相変わらず周囲に対しても不機嫌で気難しく、身勝手を改めさせないのなら、そんな宗教は決して大した値打ちはなかったという事になる🌟🌟🌟。

 

 🌟 前にも述べたことのあるフォリニの聖者アンジョラ(修道女ではなくて、たくさんの子供を持つ母であった)の言葉にこういうのである、「聖霊が或る魂に注ぎ込まれると、その人の外部をもすっかり整えるものです。そういう事が起こらないなら、それは贋物です。」現代の多くのいわゆる聖者たちの態度も、この言葉によって量ることができる。

 🌟🌟 およそ人生のこの段階において我々に要求さられるものは、元来、「聖」ではない、それはむしろ悦びをもって、完全に神に服従することである。そうした従順が存在するかどうかの証拠は、喜悦である。悦ばしさがない限り、従順についても、まして聖についてもなおさら、まだ十分とは言えない。「イスラエルの祈り」五四頁、さらに二三八頁参照。ヨシュア記一の七ー九。

 なお一般に、人生のこの段階では、いろんな形式的・律法的なものも脱ぎ捨てられる。こうしたものは、宗教に是非とも無ければならぬものではない。なるほど神は「教会法」や「教会の統治」にも同意を与える。しかしこれらは、人間に関する神の元来の考えではなくて、そういうものを設けるようにという最初の助言は、人間から出たものであり、しかも一人の異教徒から出たものである。出エジプト記一八の一九・二四。さらにエレミヤ書七の三ー五・二二ー二八、三一の三二・三三、三三の三、四の二五、二九の一三、二五の四、二の一三・一七・二一、三の二五。ヨハネによる福音書四の二四。マタイによる福音書一九の八参照。

 🌟🌟🌟 ローランド・ヒル(一七七二〜一八四二年、イギリスの将軍)はこれについて真実で実際的な言葉を吐いている、「その人の信仰の感化でその飼犬や猫までが良くなっているのでなければ、私は彼の宗教に少しも敬意を払おうとは思わない。」コリント人への第一の手紙一四の三三・四〇。

 

 さらに、老年の円熟を示す一つの主な特徴は、人生において普通なら互いに排斥して相容れないような様々の性質、たとえば素朴と聡明、威厳と無邪気な快活、洗練された趣味とまったくの簡素、明快な知性と感激性などが、一つに溶け合っていることである。こうした調和こそ、その人がこの地上で可能な限りの完成に達しているという印象を与えるものである。

 

 読者の中には、あるいは、どうしたら年をとってもなお若々しさを失わずにいられるか、と尋ねる人があるかも知れない。それに対する精神的方法として最も大切なものは、おそらく、「常に新しいことを学び」、とにかく何事かに興味を持ち、たえず何か前述の計画を立てていることであろう🌟。だから、キリスト教会の大使徒(パウロ)も、死ぬすぐ前にこう言っている、「私は、後ろのものを恐れ、前のものに向かって体を伸ばしつつ、目標を目指して走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めていえう。だから、私たちの中で完き人達は、そのように考えるべきである。しかし、あなた方が違った考え方を持っているなら、神はそのことを示して下さるであろう。」(ピリピ人への手紙三の一三〜十五)。それゆえ、それから後は単純な道である🌟🌟。人生の最後の合言葉である従順ということも、それに含まれている🌟🌟🌟。たとえ最上の意味でなされるにせよ、およそ自分自身のため、自分の向上のためになされることは全て、何と言ってもなお、いささか利己心の後味が残るものだ。老年になれば、生活がついにまったく一種の軍隊的勤務になり、そして一種の軍隊的勤務になり、そして「神の収穫」に、つまり、我々の獲物ではなく、神の獲物に、なるのでなければ、最後の瞬間までその精神的に健全を保つことは難しいであろう。宗教の秘密は、人生のあらゆる段階において神のそば近くあることである。が、それにはまず、我々は神の接近に耐えること(逃げ出さずに)を習わなければならず、次には、神のそば近くあることを願い、最後には、実際そうすることができ、「永久の燃える火に中にさえおる🌟🌟🌟🌟」ことを学ばねばならない。

 🌟 「私は常に多くのことを学びながら年老いて行く」(ソロン)。申命記三四の七、三三の二五。

 🌟🌟 間違いなく最も手近な義務だと認められる事を常に行い、それから先のことは静かに待っていること。そのような人に宿っている真理の霊は、必要に応じて何でもその人に思い起こさせてくれる。だから、その人は前もって色々のことを熟考したり、心に止めて置くことはいらない。

 🌟🌟🌟 ある司教がニクラウス・フォン・フリューエに向かって「聖なるキリスト教界において、最もすぐれたもの、最も非凡なものは何か」と問うたのに対して、周知のように、ニクラウスは従順だと答えた。従順によって、多くの行き過ぎたことが影を消してしまう。行き過ぎはすべて危険であり、いずれにせよ、聖なる事には必要のないものである。我々がおよそ達しうる最高の段階は、パウロがピリピ人に送った手紙で述べている。ピリピ人への手紙二の一四・一五、三の一二〜一五、四の四ー八・一二・一三・一八。それは、神が欲し給うような単純な人間となることであって、人間が自分自ら気にいるような者や、幾千年来人間が人為的に教育してきたような者になることではない。これこそ、人生において重要な、まことの「問題」であり、子供が新しく生まれるごとに新しく始まる問題である。これ以上に真に高いものは存在しないのである。

 🌟🌟🌟🌟 イザヤ書三三の一四。「イスラエルの祈り」の著者はこれについて次のような正しいことを述べている。「神が最も崇高な存在だという思想には、罪ある人間の心を打ち揺るがすようなものは何もないが、しかし、神が直接その人の間近にいるという思想は、おそらく(初めのうちは)心を震えあがらせるであろう。神がこの地上で我々の側に留まり、我々の地上の存在と意欲の一切をあげて深く崇められることを望んでいるということは、一つの真理であって、この真理は我々が完全に変化することを求める。だが、我々が変化した暁には、この真理は、もはや我々を震撼することなく、曇りなき至福をもって満たすのである。

 しかし、神の側近くあることは、一般の人を恐怖をもって満たすものである(ルカによる福音書五の八)。神がある人にすっかり満足されるまで、その人に対してどんなことでもなすことが出来るならば、それはその人の大きな進歩の印である(エゼキエル書二四の一二〜一四)。神がそういうことをなし得るのは、ただ人類の最もすぐれた人達に対してのみであり、こう考えて初めて、さもなければ不可解な多くの運命が説明せられるのである。

 人生の最終段階の最後の進歩に入って初めて、人はおそらく、あらゆる真実な生活の究極の言葉が神への愛であることを、十分明瞭に悟るであろう。神への愛がなければ、強い信仰も生まれないし、利己心を完全に克復することもできず、また、我々の自己完成に必要な苦難に耐えることも不可能であるか、もしくは少なくとも十分にその効果を挙げ得ない。神への愛こそは、現世の最後の言葉であり、また来世の最初の言葉である。そしておそらく、死にうち勝っておよそ来世への移行を可能にする力でもある。

 

 このように神の近くにあることは、この世では最後の最後まで、まったく苦しみなしには起こり得ないことであるが🌟、これは事柄の性質上当然であって、多くのすぐれた人達の生涯がそれを示している。すなわち、彼らの終わりの日に老シメオンと共に次のように言ったのである。「支配者よ、今やようやく、あなたはあなたの僕の務めを解いてくださいます🌟🌟。」この場合、(前にも暗示したように)家人に取り込まれ、広く同じ市民たちの称賛を受けながら世を去るいわゆる「結構な死」は、決して最上の運命ではなく、また神の最高の称賛を意味するものでもない。むしろ死そのものまでが、国民や人類のための最後の行為であるような死のみが、神のよみし給うものであろう。しかし、現代はキリスト教の精神が非常に衰えているので、今では大多数の人々が🌟🌟🌟、いや、最も敬虔な人達さえもが、そうしたことをまったく顧みないのである。しかし、どんな死に方をするかということは、その前にどんな生き方をするかということと同じく、いずれにしても人々の意のままになるものではない。だから、あらゆる「人生問題」の内のこの最後の問題についても、是非とも、前もって神と平和を結んでおかなくてはならない。いよいよ人生の最終地点に達して、今やほとんど全く歩き通した人生行路の全体を顧みる時の魂の気分をおそらく最もよく現しているののは、パウル・ゲルハルトの次の言葉であろう🌟🌟🌟🌟。

 

 「ひたすらヤコブの神(エホバ)とその救いとを仰ぎ見る者は幸いであるる。

  この神に身を委ねる者は、この上ない分け前を得、

  最高の善を選び、最も美しい宝をあいしたのだ。

  その人の心も、その善本質も、永久に曇ることはない。」

 

 🌟 イザヤ書八の一〇。アッシジの聖フランチェスコの最後の言葉は詩篇一四二の言葉であった、「私をひとやから出し、御名に感謝させて下さい。」すぐれた人達にも、また立派に過ごされた生涯の終わりにも、やはり一種の哀愁が現れることがある。これこそまさに、人生の偉大な理想と、人間の生命の短かさとの間のやむを得ない矛盾の現れであり、また、偉大な事業のためにふさわしい後継者や探究者を見出しうるとは限らない覚束なさの現れである。やはりフランチェスコの晩年も、彼の真の根本思想がその後継者たちに全く誤解されてしまったことに対する悲しみで被われていたのである。それに似たことは、パウロやブルームハルトにも起っている。しかし、これは人間の不完全さの一成分と見なすべきものであって、むしろ人間にますますより良き生活を求めさせる所以である。ともあれ、こうした悲しい気分が、心を支配するのはよくない。

 🌟🌟 ルカによる福音書二の二九の我々が普通知っているドイツ語訳は、ずっと穏やかな表現になっていて、原語に忠実ではない。この場合、神は、普通の意味の「主」として呼びかけられているのではなく、僕(しもべ)の力の最後のひと息まで使い尽くす「厳しい支配者」として呼びかけられているのである。

 🌟🌟🌟 現代においても、例えばゴルドン・パシャ(一八三三ー八五年、実名チャールス・ゴルドン。イギリスの将軍)の死は、栄光に満ちた、しかし決して「平和」でなかった最後の一例である。彼の全生涯と同じように、その死もむしろ実に非凡なものであった。いや、そうならざるを得なかったと言った方が良いかも知れない。これに比べると、現代の多くの大人物の晩年はなんと卑小に見えることだろう。

 🌟🌟🌟🌟 この詩は詩篇一四六の五の意味を述べたものである。

 

 完成に近づいた生涯のこの上ない美しさは、魂の平安、もはやいかなるものにも揺らぐことにない平和であり、神と人とに対して戦いぬいて、ついに「勝った」(創世記三二の二八)平和である。

 

 ここまで達するのに必要なあらゆる宗教の要点は、しごく単純なものである。それは元来すでに、今では一般に理解されなくなった次の言葉にまさしく尽きている。すなわち、宗教の要点は、我々が常に注意深く、神との結びつきに向かって扉を開いておくことにある。それは、我々の側から言えば、それを妨げる一切のものを捨て去り、それに対して絶えず善意を持ち続けることによって、起こるのである。このこと聖書は「神を求める」(ヘブル人への手紙一一の六)と呼んでいる。そうすれば、神もまた「思いがけなく」来たり給うて「多くの善きことをして下さる」のである。誠実に神を求める心さえあれば、たとえごく不完全にしか神を知らない人達にさえも(たいていすべての人がそうなんだが)神は来て下さるのである。

 しかし、もし神が来てくださらず、また昔の言い方を借りると「我らにくみし給う」(これはどんな方法でも強要することはできない)ことがないとすれば、あらゆる現存の形式の、あるいは将来考えられる形式の宗教的実践もすべて、いわば死産に終わるべき人間の業(わざ)にすぎない。そして、我々すべてが宗教によって求めているものーー幸福を与えてはくれないのである。

 

     米     米     米

 

  「アーメン、神はほむべきかな、

  我らの霊をキリストに向け給う。

  願わくは我ら全てを助けて、

  もろともに永遠(とわ)のいのちに入らしめ給え、アーメン。」

                 (同胞教会讃美歌第一二一番)』

 

 

 

                清秋記: