カール・ヒルティ、『幸福論③』・「二種類の幸福」七頁以下: | 真田清秋のブログ

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 『人間だれ一人として幸福を求めないものはない。幸福を求めるということ以上に、青年と老人、優れた人とつまらぬ人の別なく、あらゆる人々に共通した考えはない。ただ、幸福の内容はどんなものか、また、いったいこの世で幸福は見出せるかどうかという点で、人々の考えが一致しないだけである。

 この問題の思いを砕く教養人たちの中には、今も昔も変わらず、まず第一に、この世で幸福を得られるどうかを疑うものが少なくない。彼らはいわば一種の手厳しい反抗をもって、いやしくもものを考える人間は人生に対して高い要求を持つからこそ、かえって幸福な生活を営むことができないのだ、と主張する。

 このような徹底的な厭世感が思想生活を圧倒的な力で支配するようになる時、一と言で言えば、狂気の始まりである。

 こういう考え方は、人間の本性に幸福を求める欲望の存することを認めながら、しかもそれの満たされる可能性を否定するのである。しかし、借りにも或ることが人間のあらゆる願望の最終目標であると同時に、また、それに到達できないということが確実だとしたら、人間の存在全体がもはや少しも条理に適った意義を持たないものとなる。そのようなことを十分確信をもって、本気に信じるとすれば、それは既に狂気の発端である。そうなれば、問題はもはや、その状態がそのまま進行を続けるか、それとも方向転換の可能性があるか、ということだけとなる。

 それとは反対に、そうした厭世感がただ一時的のものである場合🌟、あるいは、人生の意義や目的について何ら確信を持たないことを隠すための口実にすぎない場合には、それは「我らは愚かにして、正しい道を見失った」という、実に悲しむべき言葉の真実を裏書きするものである。もしまた、厭世感を抱くことをひそかに誇りとしたり、そういう自分を気が利いていると思ったりするならば、その誤りはいよいよ絶望的なものとなるであろう。

 🌟 人間をいったん信頼して、その後に彼らがいかにそれに値しないかが分かれば、一時はひどく悲観的な気分に陥る危険が特に大きい。このような「一時的」な厭世主義は数多くいるものだが、彼らのいうところは一般にこうである。「なんと言ってもこの世には愛があまりに少なく、利己主義があまりに多い。だから、我々は世に中に見切りをつけ、それを軽蔑したいと思うのだ。」この言葉の前提は正しいが、結論は間違っている。

 

 このような二つの精神的方向についてこれ以上考察することは、さしあたり無益である。というのは、どちらの方向も幸福を求めようと欲しないか、あるいは少なくとも、幸福をば本来それが見出せるところに求めようとしないからである🌟。彼ら自ら「存分に生を楽しむ」と称し、かつ実際それを要求している通りに、生活の個々の点でも、生活全体としても、やらせておくより他はない🌟🌟。世界史もまた、成功と失敗の実例によってのみ、人を教育するものであって、すでに幾多の時代、幾多の民族が実際、その抱いた人生観の、帰結をそのまま史上に曝け出して、他の人々の戒めとならずには済まなかったのである。

 🌟 ゲーテもこのことを、「タッソー」(第二幕二場)の中で有名な言葉を述べている。「幸福は現にあるのだが、我々はそれを知らない。それを実際知っていても、尊重することを知らない。」この言葉こそまさにゲーテの生涯の要約であり、また、幸福に到りうる素質を十分備えている他の多くの人生の要約でもある。

 🌟🌟 こういう人々はさほど重んずるに及ばない。イザヤ書四〇の一五、一七はすでに何十世紀も前に、これについて正しい言葉を述べている。

 

 これに比べればはるかに重要視すべき種類の人々がある。彼らは一層優れたものを求めるために、あるいはむしろ求めると思い込んでいるために、「幸福」があまりにも下らむものに見えるのである。だが、この見解は上部だけもっともらしく見えるにすぎず、少し深く考えれば、容易に次のようなことがわかる。すなわち、この人々の求めるものもやはり幸福なのであるが、ただ大多数の人々のこいねがうものと違った幸福を求めれいること、たとえば一般の人々と違った人生の目標や活動の中に幸福を求めるとか、または、幸福を総じてこの世の生の彼方、つまり来世においてであろうと、このような人々の欲するものもやはり幸福であることに変わりはない。彼らは、あわよくば得られるかも知れないつまらぬ幸福を、彼らにとって確実な、より大きな幸福のために犠牲にするというだけの相違である。このような人々のために、現在よくその名が挙げられる中世のキリスト教の一著述家が、彼らにはもとより自分自身にも完全に明らかとは言えない所の、その思想の真の意味を、次のような言葉で言い表している。,,Duplex est beatitud ;

 imaimperfecta,quae habetur in hac Vista, et alia, perfecta ,quae in visione Dei consistit "

 🌟(直択すれば)ーー幸福には二種類ある。一つはこの世において得られる不完全なものであり、いま一つの幸福は神を見ることの存する完全なものである(訳者)

 この文章を、その正しい真髄にそうて訳するならば、こうなるであろう。「幸福の種類には二通りある。一つは常に不完全なものであって、この世の様々な宝をその内容とする。いま一つの幸福は完全なものであって、神の側近くあることが即ちそれである。」このように解してはじめて、この文章は完全に真実となり、またそれに基づいて、この世で実現されうるものとしての幸福について、あらゆる条理ある論議が始められるうるのである。

 

             一

 

 価値の低い幸福に到る道は、すでに古くから数限りなく述べられてきた。しかも、そのような幸福の不確実さについては、ほとんど諺にまでなったほど、ありとあらるる考察を加えながら。だが、その効果はどうかといえば、せいぜい、すでに幻滅を味わった先人のこのような教訓に従わない方が賢明だと、すべての後代の人々をして考えさせることくらいのものである。

 そうなる原因の一つは、教訓を与える人達が、この問題をあまりにも自明なものとして扱いすぎるからであろう。

 財産を持つことは幸福だと言われるが、果たして真実であろうか。しかし、財産を適当に支配し管理できない時、また、それを正しく使用し得ない時、あるいはそれが正しく獲得されたものでなかった場合、なおそれを失うことを絶えず恐れなければならない場合には、確かに財産は幸福ではない。さらにまた、財産が大きい場合に得てしてそうなりがちであるが🌟、財産のために高慢になったり、無為や貪欲や吝嗇に陥ったりするならば、まさしく不幸ともなるであろう。これに反して、財産があらゆる能力を正常に発達させるための確かな基礎となり、ちゃんとした教育を受けるための保証となり、人間への恐怖や従属に陥ることのない為の支えとなり、また人間のもっとも気高い性質である親切や同情を妨げられずに伸ばして、絶えざる修練によってのみ得られる或る完成度まで到らせる手段ともなる場合、財産はいわば相対的な幸福である。という意味は、財産そのものは無論高い幸福でもなく、また決して十分確実な幸福でもないということである。

 🌟 また富も、常に人の境遇ーーさらには願望によって異なる、非常に相対的なものである。物資的な財を、所有したいと願うだけ十分に所有する人は富んだ人であり、いたずらに大きな願望をいだく者は、そうではない。ことに、心配というものは、富によって除かれるものではない。除かれるという考えは、現代の最大の誤謬の一つである。

 

 名声は幸福であるか、古代の考え方によればそれはそうであったし、名声に並ぶ幸福は他になかった。だが、次のような場合は、明らかに幸福とはいえない。すなわち、名声が失われやすいために絶えざる不安と結びついている時、あるいは、その持ち主を絶えず新しい熱病的緊張に駆り立てる時、また、名声が悪い道づれとして嫉妬心を伴う時、もしくはその名声が疑問の余地がないほど正当なものと言えない時、従ってその人がすぐれた賢明さと自己の対するまったく正しい判断を併せ持つ限り、名声の楽しさが、不当にそれを得たという感情によって、ことごとくーーあるいはほとんどーー消え失せてしまう場合などがそうである🌟。

 🌟 真の名声は常に、いくらか自己を超越したものとさえ言えよう。しかしこの点に、幸福感の否定が含まれているのだ。「月桂冠の冠は、それを獲得した者にも、それを得なかった者にも、苦い薬である。」

 

 仕事と活動は、「ファウスト」がその第二部で述べているように、はたして幸福であろうか(第二幕、一〇一八一〜八行)。おそらく仕事は、一般の幸福への道の中では最も近道であろう。ただし、人が自分の仕事を正しく理解し、その仕事そのものが十分にすぐれたものであって、それをするだけの力と機会が常に恵まれている限りにおいて、そうである。そのような場合は、イスラエルの箴言詩人(伝道の書三の十三)が述べ

たように、人がその仕事によって楽しむより以上に良きことはおよそこの世にはない、という言葉が大体当たっているであろう。しかし今日、働くものの大多数がはたして愉快であり、幸福であろうか。そうとは思われない。だから、仕事そのものは、必ずしもただそれだけで人を仕合せにせず、他のものと結びついてはじめて人を幸福にするのである。最もよく成功を収めた幸福な活動家でさえも、自分の仕事が終わって休息の許される日をしばしば待ち望むことを、否まないであろう。

 それでは、休息が幸福であろうか。それが仕事を伴わない場合、また、休息しながらも同時に、ただありふれた休息の欲求以上に高遠な思想に心を養うのでない場合は、休息も決して幸福ではない。さもなくば、休息は青春を損なうものであり、また老化を防ぐことにもならない。それどころか、老年においても元気を保つ原則は、できるだけ安定した、適当で有益な仕事をし続けること以外にはない🌟。

 🌟 これについては「スイス連邦政治年鑑」第一二巻に載せた「仕事と休息」に関する拙論を参照せられよ。

 

 芸術や学問は幸福であろうか。もし自分の欲するままに一切をなす力を持ち、またその知識を持つ者ーーおよそそんなことが実際にありうるとしたらーーそのような人にとっては芸術や学問は幸福であろう。しかし、それらの広大な領域で、感情的に自分こそ最も幸福な人間だと思っている者は、実際は自己欺瞞の虜になっているのである🌟。

 🌟 ダンテ「神曲」浄罪界第一一歌九一〜一一七行。伝道の書四の四、七の一六、一二の一二。きわめて近代的な自然科学者(ハックスリー。一八二五〜九五年)でさえこう言っている、「人生の大目的は知識でなくて、実行である。」

 

 力、健康、あるいは個人的権力は幸福であろうか。この中では力が最もそれに近い。そこで、力に対する深刻な欲求に基づいて、新しい哲学が紛れもない力の道徳、支配者の道徳を打ち立てたのは、無理もないことである。ところが、力や健康を実際に持っている者がそれを何よりも大事にすることは、ほとんどない。むしろ力の崇拝は、自己の無力感によって挫(くじ)かれ、自ら卑屈になっている魂の叫びであるのが常だ。また、申し分のない健康は、ある意味での精神的凡庸と結びついていることが珍しくない。これに反して、人間の心に宿る最も深遠な思想や感情は、苦難の中から生まれる。その上、力と健康という二つの宝は、まったく容易に失われるものであり、それどころか、絶対に間違いなく衰えるべき運命にある。権力は、ラサール(ドイツの社会民主主義の創立者、一八二五ー六四年)の見解によれば、「気高い目的のために用いられるのならば、天の最高の宝」である。従って、自己の力を最もよく自覚している人においても、常に何らかの条件に縛られる宝なのである。けれども、そのような気高い目的は、無制限な権力に支えられると見える場合でさえ、常に障害なしに達成されうるであろうか。また、独裁的狂気と呼ばれる恐ろしい病気なり、少なくとも人間軽視なりが、権力には不可避的に随伴するものではなかろうか。かつて権力を掌握した中の最も聡明な人のひとり🌟が、功業に飾られた生涯の終わりに望んで「わしは奴隷どもを支配するのに倦み果てた」と述懐している。

 🌟 フリードリヒ大王。

 

 高貴な生まれ、あるいは比較的上層の教養ある家庭に生まれたことも、その伝統を受け継ぐにふさわしいと思われる場合に限り、幸福といえる。さもなければ、それはかえって絶えず苦い自己非難のもととなり、またそういう人がやむ無く下層の階級に身を落としたり、そうした階級の者と結婚しなければならない場合、たいていそのような出生が道徳的堕落の因となる。

 最後に、愛情は幸福であろうか。然り、そして否である。というのは、この世の最も気高い心根の人であっても、ひたすら愛情のみに身を委ねるならば、必ずそのために破滅するからである。愛情は、まことに古今の大多数の悲劇の主題であって、それはなるほど偉大な真実ではあるが、不真実にも変事うるものであり、また心の底に染み通る幸福ではあるが、あらゆるものを破壊する不幸ともなりかねないのである。この愛情にすっかり身を委ねる人の心情が深く、かつ純粋であればあるほど、その人は確実に、そして完全に、不幸になるであろう。死によってこの苦い経験から逃れるのでない限り。これは決して悲観論というべきものではなく、心温かに天分豊かな無数の人達が経験した、人生の事実である。』

 

 

 

               清秋記: