カール・ヒルティ、『幸福論②』・「人間知についに」107頁より: | 真田清秋のブログ

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 『嫉妬心は実に、生涯のいやな随伴者であって、普通、生涯の終わりになってようやく消えるものである。しかし、これは真に偉大な人々にとっては、過大な崇拝から自分を守る最も必要な防御武器である。過大な崇拝か嫉妬なしにただそれだけで存在したら、彼らに大きの害を与えるだろうし、また、そのような崇拝はおよそ価値の少ないものである。一グラムの真の友情は馬車一台の崇拝にはるかにまさっている。

 

 次のような心掛けもまた、人間知を得るために非常に大切な規則の一つである。すなわち、あなたはありのままの自分をあからさまに示すがよい。ことに悪に対しては、主義として公然とこれを憎め、そしてそれを表明するいかなる機会をも逃すな。こうすれば相手方もまた、あなたに自分の持ち札をもっとはっきり見せるだろう。とりわけ公人に、その生活全体が「透明な水晶」のように透き通っていて、すべてが人の眼に見えるようにならなくてはならない。

 

 人間は総じて、自分にありもしない性質について語りたがるものだ。これとは反対に、悪の性質については「おおよそ、心に溢れることを、口が語る⭐️」という格言が当てはまる。淫らな話題やそういった方面での世間の危険について、たとえそれを非難する道学者面をもってであろうとも、しばしば、しかも好んで喋りたがる人は、彼自身つねにそうした事柄にひそかに強い興味を感じているのである。さらにまた、二言目には慈善や善行を口にする人たちも、実は吝嗇や所有欲の素質を持ち、それに打ち勝つ必要のある人である。最もよくないのは、つねに誠実や、忠誠を口にする者である。

 ⭐️マタイによる福音書一二の三四(訳者注)

 

 一つの専門に熱狂する人たちは大抵、彼の感情をそのように昂奮させなければ、その専門に耐えきれないことを、初めからよく知っているからそうするのに過ぎない。だから、彼らは概ね、全く正直だとはいえないのである。

 

 ささやかな人々、とりわけ幼い子供や単純な貧しい人たちや、いや、動物にまで、信頼され、好かれるということは、およそ人間の最上の標徴(しるし)の一つである。子供や動物から好かれないような人は信用できない。婦人もまたよき価値の尺度であるが、ただしそれには、その婦人自身がよい性質の人だという前提がいる。さもなければ、正反対の意味の価値尺度となってしまう。ささやかな人々とつねに交わることは、人生に満足するために大いに役立つものである。大厭世家たちはすべて、このようなささやかな人たちを軽蔑して、しかも彼らが交際を求めた偉大な人たちにちっとも満足を見出し得なかったのである。

 

 若い人の厭世主義や人間嫌いは、それがただ口先きだけのものでないなら、彼らの正常ならぬ品行を立証するものであり、反対に、純潔に保たれた青春は人生の尽きることなき悦びの源泉である。

 

 われわれが正しい人間であるのは、人々がわれわれを褒めるからではなく、「主がわれらを褒め給う」からである。このことをかつて経験したことのある人は、また次のことをも知っているであろう。すなわち、人間の賞讃は実に当てにならない安価なものであり、常にいくらか人を高慢にし、真理から遠ざけるものであるが(ヨハネによる福音書五の四四)、これに反して、神の賞讃は決してこういう影響を与えないということを、敬虔であってしかも高慢な人がいたら、彼に向かってキッパリ言ってやって差し支えない。主は君たちを決してお褒めにはならなかった、君たちがただ自分で自分を褒めたり、他の人たちに褒めてもらっているだけだ、と。

 

 高慢は常にある分量の愚劣さと結びついている⭐️。虚栄心⭐️⭐️は滑稽ではあるが、憎らしくはない。ところが高慢は、他人に軽蔑をまじえた反抗心を起こさせる働きをする。うがった諺が言うように、傲慢は常に没落の寸前に現れる。傲慢になる者はすべて勝負を失っているにであって、彼は破滅に向かって進んでいるのだと考えて間違いない。神がわれわれを見捨て給うやいなや、われわれの心は威張り出すものである⭐️⭐️⭐️。

 ⭐️ 高慢な者について主はこう言っている「私と彼とは共に住むことができぬ。」イスラエルの格言。詩篇一三八の六参照。

 ⭐️⭐️ ある人の性格に微塵も虚栄心がないということは、おそらく最も驚嘆の念を起こさせるものであろう。ところが人々は、そういう高慢な性格の存在を容易に信じようとしない。むしろ彼らは、実に厚かましくも、誰でもそに人の虚栄心を利用すれば意のままに出来るものと期待しがちである。いわゆる「崇拝者」の多くはそういうたちの人々である。

 ⭐️⭐️⭐️ 歴代志下三二の二五・三一。また、あらゆる傲慢の基盤は非常に感覚的なものだと予想して間違いない。純粋に精神的なものはすべて謙遜である。なぜなら、その使命の偉大さが十分心に染み渡っているからである。

 

 これに反して、われわれが自分の欠点をはっきり自覚して、そのために謙遜な気持ちになっている時は、そうした欠点も他人にはあまり気づかれずに済むことが多い。確かにこういう欠点は、われわれがなお悟ろうとせず、また悟ることのできない欠点ほどには、外に強くあらわれる惧れはない。これこそ、自分自身に対するかような戦いの最初の目覚ましい報賞である⭐️。

 ⭐️ ダンテ「神曲」浄罪篇第一三歌118ー136。

 

 正しくしかも好意のこもった批評であれば、どんな人にとってもそれは必要であろう。しくじれば、世間から容赦なく非難されたり叱られたりする庶民の方が、学校を終えるともう道理ある非難は滅多に受けないような身分の高い人達よりも、かえって進歩が早いのはそのせいである。非難する人達ですらも、身分ある人に向かっては、自分たちが重要にして欠くべらざる人間だと思わせようとするだけで、批判される当人にとって実は何ら痛痒を感じないような点を勝手に攻撃するのである。』

 

 

              清秋記: