カール・ヒルティ、『幸福論①』、「わが民を慰める」83頁より: | 真田清秋のブログ

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 『おのれの弱さを知るその同じ使徒パウロが、波乱の多い、しかし勝利と栄光にみちた自分の生涯の終わりに、彼の信仰上の子であるデモテにかような心の勇気を持つように進めているが、これはもとよりなんら自然的な強さを必要とするものではない⭐️。十分に試煉を経た人に、まずこうした心の勇気が備わるならば、そのとき初めて、これまで不安の波に揺れ動き、時にはまったく意気銷沈した魂にも、聖書の約束通り、平和と揺るぎなき幸福とが訪れるのである。まず第一にーーこれが最も大切であるが、ーー内的幸福がやってくる。それは、その美しさにかけては世界のいかなる文学とも比較できないほどの雄大な描写をもって、イザヤ書第四十章⭐️⭐️(だからその冒頭一句「慰めよ、わが民を慰めよ」から私はこの表題を選んだ)に描かれているような幸福である。すなわち、「わが民は平和の家におり、安らかな棲家におり、静かな休み所におる⭐️⭐️⭐️。」鳥が雛を守るように⭐️⭐️⭐️⭐️神に守られ、道の上に獅子が待ち伏せていることもなく、どんな仕事ももはや実らぬものはなく⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️、ごく愚かな者でもそこでは迷うことにない、そういう聖(きよ)らかな進歩の道をゆく幸福である。しかも、その幸福とともに、その民の子孫のための恵み、また彼ら自身の老い先までの恵みが約束され⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️あらゆる敵に最も正しい復讐が加えられ⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️、さらに一切の願いがたえず叶えられ⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️、その最後には、「みなぎる流れ」のように溢れんばかり歓喜が与えられ、「母がその子を慰めるように⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️」慰められるのである。

 

 ⭐️ テモテへの第一の手紙二の二ー五。

 ⭐️⭐️ 部分的には、すでに第二九章からそうした叙述がはじまっている。

 ⭐️⭐️⭐️ イザヤ書三二の一八。

 ⭐️⭐️⭐️⭐️ イザヤ書三二の五。

 ⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️ イザヤ書三五の八ー10、五三の一一。

 ⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️イザヤ書四四の三、四六の四、四九の一一・一六、五四の一三。

 ⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️ 五一の二三、五三の10ー一二、五四の四・一七。

 ⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️イザヤ書六九の二四。

 ⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️ イザヤ書六六の11ー14。

 

 こうして、つねに悲喜こもごもの生涯の終わりに、ついにこの「慰められた人」に授けられるものは、澄んで曇りなき慈愛であり、これこそおよそ人間が手に入れうる最高のものである。そうなれば、どのような悦びも神々を疎んじさせるものとはならず、どのような苦悩ももはや人を苛立たせることがない。悲喜いずれもが、陽の光と雨のように、同じてから授けられたものとして受け取られる。しかも、感謝をもって受け取られる、というのは、今や溝から他の人々に恵みを与える者となった一つの生命にとって、悲喜いずれもがなくてはならぬものだからである⭐️。

 ⭐️ 創世記一二の二、一四の一九。多くの苦しみを経なかった人は、恵みを他人に注ぐことはできない。そういう人の言葉がどんなに荘重に響こうとも、まだ本当の感化を人に及ぼすものではない。

 

 なおまた、外的な力の方も、それが何らかの意味で、神に導かれた人の真の幸福と一致しうる限り、やはり授けれれる。しかも、いずれにせよ、他のいかなる人生観に従って得られるよりもはるかに高い、はるかに確固たる地盤に立って⭐️、である。そればかりか、こうした人々はたとえその踏む道や思想において過ちを犯したとしても、その場合でさえ、彼らには万事がしばしばよき方へ赴くのである⭐️⭐️。

 ⭐️ マタイによる福音書一〇の二九。詩篇二三、三六、三七、九一。詩篇五〇の一九、三四の一八ー二三。コリント人への第一の手紙八の二。エゼキエル書三四の一四。申命記五の二九。.二六の一八。出エジプト記一九の四ー六。ヨシュア記二一の四五、二三の六ー十四。ハガイ書二の八・九。マラキ書三の十四ー十八、四の二。

 ⭐️⭐️ 使徒行伝二六の三二。創世記五〇の二〇。士師記三の二。詩篇二五の一〇。エスコバルのマリア関する注(七六頁)参照。』

 

 

            清秋記: