カール・ヒルティー、『幸福論②』・「わが民を慰めよ」79頁より: | 真田清秋のブログ

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 『けれども、疑いもなく、真の勇気は、ただ徐々に、しかも苦しい日々のうちにのみ学び得られるものである。さらにまた、およそ正しい人生観を得たり、人間の型が大きくなったりするのも、おもに苦難の日の賜物である。それゆえ、真に重要な人物にあって、しかも多く苦難を舐めずして人生を経てきた者はなかったであろう。聖書はしばしばこうした苦難を溶鉱炉の火に例えているが、まことに正当である。その火は、立派な金属が多量に含まれている場合に限って、極めて高い熱度に達することができるのであるが、しかしそれによって、或る人の中にある純金が残らず現れるのである⭐️⭐️。少しの苦しみをも避けたがる人は、神の最大の賜物を捨てて、そうせずとも済むものを、わざわざつまらぬもので満足するのである。なぜなら、人はどんな大きな苦難に会っても、恐れる必要はさらにないからである。怖れを抱く間は、その人の内に、まだ追い出さねばならぬ不正なものがあるのである⭐️⭐️⭐️。

 ⭐️ 箴言一の二三。だから聖書はしばしば善き人の苦難を「ぶどう絞り」に譬えている。すなわち、見たところただ破壊的とすら思われる圧力を加えて、在来の物から、ずっと上等の物を作り出すことに比べているのである。

 ⭐️⭐️ イザヤ書四八の二〇、五〇の一一。エレミヤ書六の二五。マラヤ書三の二・三。

 試煉に怯える魂は、そういう時にしばしば、その試煉がいつまで続くかをたずねるものだ。こうした疑問にいくらか答えてくれるものは、とりわけ詩篇一〇五の十九ー二〇、ヨハネの黙示録二の一〇・一一、ルカによる福音書一八の六ー八、エレミヤ書三〇の11ー14、哀歌三の二〇ー二九である。試煉は、人の心が「もだしてただ神を待つ」(詩篇六二の一)ようになり、試煉を心から受け入れるようになるやいなや、大抵まったくひとりでに、しかも通常思いがけなく、終わってしまうものである。時には、試煉は非常に微かに、また穏やかに、一種の和やかな和音をもって終わることさえある。だから、その試煉があまりにも痛ましい傷跡を残さない限り、後から考えると、試煉の時がまるで楽しかった時のように思い出されるものである。ハレ大学のヘレンシュミット教授(一七二三年没)の作である有名なヘルンフート派の美しい讃美歌(六三六番)はこれについて次のように歌っている、「その時いたれば、力強き救いが現れる、彼の悲嘆を恥じしめんと、そは思いがけなく来らん。」しかしキリスト教は、平凡な幸福追求者の心には不可解な「苦難の崇拝」とも名づくべきものを含んでいるということは、常に間違いのない事実である。あるいはまた、すでにベーコンが言っているように、旧約聖書の祝福は繁栄(プロスパルティ)であり、新約聖書のそれは苦難(アドバンティ)ということも、たしかにその通りである。

 ⭐️⭐️⭐️ ヨハネの第一の手紙四の一八。

 

 恐れがなくなると同時に、怒りもなくなる。怒りはたいてい隠れた恐れすぎないからだ。怒る人は勇気の或る人ではなくて、恐れているのである。そう考えて十中ハ九間違いはない。ことに、いわゆる「怒りの聖者たち」、すなわち、この世の命の終わらぬうちに彼らの熱意と憎悪の力によって、キリスト教を救わねばならぬと考えて、耐えず熱狂し煽動する人達は、実は、たんに臆病で、甘ったるい、して万事に適応し、特に世間で高貴とされているものといつも妥協するような人間の一変種にすぎない。両者の態度は、恐怖という全く同一の源から発しているのである。

 しかし、信仰の大いに進んだ人でありながら、なお、自分は弱いという感情にいつも悩まされていることがしばしばある。われわれは、こうした気持ちが、使徒たちの中で勇気ある人(パウロ)の手紙に記されているのを知っているし⭐️、また、みんな自分自身の経験からもそれを知っている。そしてこの感情はたいてい、次のような変わった性質もっている、すなわち、この弱さの状態は、往々にしてまったく不意に、しかも内的生活の最上の日々が続いた後で、あらわれるのがつねであり、その時、魂は打ち挫かれて本当に絶望に陥ることさえあるのである⭐️⭐️。

 ⭐️ コリント人への第一の手紙一二の九・一〇。ヘブル人への手紙一〇の三二ー三九。ピリピ人への手紙四の一三。ガラテヤ人への手紙二の二〇。

 ⭐️⭐️ 列王記上一九の四。出エジプト記四の一三・二四。

 

 このことについては、そのようなこころ挫けた人々を慰めるために、まず第一につぎのように言うことができる、すなわち、このようの中で強大なものは常にどこか粗野なもの、不信心なものを身につけている。そして、このような性質は今日でもなお万人力を持った巨人のような人物に認めることができるのである⭐️が、われわれは、遺憾ながら、そのような人物が特に神のお気に召すとは、どうしても受け取れないのである。その上、キリスト教は決して、そのような巨人や半神を生み出そうと目指すものではない⭐️⭐️。

 ⭐️ 創世記六の四・五、一〇の八。歴代志上一九の四ー八。ヨブ記二二の二。詩篇一四七の一〇・一一。イザヤ書六六の二。箴言二六の一二。コリント人への第一の手紙一の二五ー30。使徒パウロが、内的にも外的にも失敗したアテネへの出現の後、非常に打ち沈んだ気分でコリントに滞在していた時に、彼の最も実り豊かな時代が始まったのである。コリント人への第一の手紙二の1ー五。今日でも、自信に満ちた説教が最も感銘を与えるわけではない。また、読者諸君がこの私の論文を快く迎えて下さるとしても、これらの論文は決して、言葉の普通の意味で幸福な時に書かれているのではなくて、体の様々の支障で、魂の大きな憂苦のうちに書かれたものであることを断言することができる。これらすべての障害に「われわれは確かに十分うち勝つ」のではあるが、しかし、それはただ、われわれに「勝利」を与えた方によってであって、自分の力によるのではない。コリント人への第一の手紙一五の五七・五八。

 ⭐️⭐️ これについてわれわれはこの上なく慰めてくれるのは、ヨハネによる福音書五の一九・三〇・三六、一四の一二・二四・二六、一六の一三、一五の五に述べられているキリスト自身の言葉である。従ってわれわれは、早く力を得ようと焦る必要はない。われわれもまた力をーーしかも、自ら自分にうちにそれを生み出すことができるであろうよりも、はるかに優った力をーー持つことも授かることもできるのである。

 

 次に、弱さの感情が教育的なもったこともまた、容易く認められる。傲慢、そしてその腹違いの姉妹であって、しかもずっと下らぬ虚栄心⭐️、この二つを根こそぎに絶やしてしまうには、或る期間中絶え間なく打ち続く困難な運命に圧倒され、ついにその結果として生ずる深刻な持続的な弱さの感情によりほかはない。傲慢な人や虚栄の人は、もし彼らがひとかどの人間になる運命を持つとしたら、一生に一度は徹底的にこのような煉獄の火を潜り抜けねばならない。「主は高くいませれてるが、低い者を顧みられる。しかし高ぶる者を遠くから知られる」(詩篇一三八の六)からである。確かに、神は高ぶる者には近づきたまわない。その上このような弱さか内的進歩そのものに関わりある場合でも、やはり少しも落胆する理由はない。使徒パウロは、ガラテヤ人がすぐれた内的生活から実に浅薄な下らぬ宗教観に後退したのを見ても、なお、「あなた方は皆キリスト・イエスにある信仰によって、神の子である⭐️⭐️」とあえて断言しているが、このことは、信仰の弱さのために、そのように心の疑惑に陥った時、むしろ一つの慰めとなるのである。信仰がまったく失われない限り、斯様なほんの一時的な段階にすぎず、こうした時が普通の意味でのいい時期よりも、かえって実り豊かなことが多い。弱さはまた結局、一つの力にさえなりうるのである。自分は強いという感情は、たえずそういう気分に陶酔したがる人間の傲慢に阿るものであって、真の内的進歩を促すよりも、むしろそれを妨げるのである。

 最も勇気ある人とは、最も自身の強い人間のことではなく、この世のあらゆる力にまさる偉大な力を、揺るぎない拠点としている人間のことである⭐️⭐️⭐️。

 ⭐️ 傲慢と虚栄心とは、人間の真の幸福を阻む最大の敵の仲間である。箴言一六の一八、一八の一二。ガラテヤ人への手紙2の6。 

 ⭐️⭐️ ガラテヤ人への手紙三の二六。

 ⭐️⭐️⭐️ コリント人への第一の手紙一の二五ー三一。コリント人への第二の手紙四の八、一二の九・一〇。マルコによる福音書一六の一七・一八。ヨハネによる福音書一六の三三。使徒行伝一の八。』

 

 

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