『幸福論①』、「幸福」223頁より: | 真田清秋のブログ

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 『仕事は、人間の幸福の一つの大きな要素である。いな、単なる陶酔でない本当の幸福感は、仕事なしには絶対にあたえられないという意味でなら、実に、その最大の要素でさえある。人は幸福であろうとすれば、「一週に六日は働か」なければならない。また「自分の額に汗してそのパンを食わ」なければならない。この成功の二つの前提を避ける者は、幸福を追求する人の中で最大の愚者である⭐️。

 ⭐️ すでに旧約聖書にも、地上において人見出しうる最大のものは、「人はその働きによって楽しむに越したことはない。こらが彼の分だけらである」と言われている。伝道の書3の22。

 

 仕事なしには、実際この世には幸福はない。消極的にとれば、この言葉は完全に正しい。と言って、仕事はそのまま幸福であり、したがってあらゆる仕事は必ず幸福感を伴うというのなら、それはもはや誤りである。人間の空想が別の理想を知っているというばかりではない。おそらく誰も、不断の働きに満ちた天国なり地上楽園なりを想像することはできないだろう。なおまたーーこの方がむしろ重要だがーー自分の仕事に満足するということは、馬鹿でなければできなことだ。われわれは実際こう言って良いであろう。賢い人ほどよく自分の仕事の欠点を知っている。その日の仕事を終えて、「みよ、すべては良い!」ということのできた人は、未(いま)だかつて一人もいなかった、と。だから、声高な労働讃美の裏には、たいてい、自分んも他人をも仕事に駆り立てずにはおかない拍車や鞭(むち)のようなものが隠れているのである。大きな誇りをもって自ら「労働者」と称している人たちでも皆、結局できるだけ「正規の労働時間」を切り下げたいと考えている。もし働きそのものが幸福と同じ意味であるなら、彼等はできるだけ働く時間を増やそうと努めるだろう。

 幸福追求者の中で最も奇妙なものは、おそらく幸福を厭世主義に求める者であろう。ところが、そういう人たちは決して少なくないのである。しかも、普通、彼等は最も卑しい人間だというわけではない。しかしたいてい、これには一種の誇大妄想が伴っている。すべてのものを投げ捨てて、自分を含めて一切を悪だと宣言することは、いかにも荘厳に聞こえる。その悪の中でも、自ら悪であることを洞察して、これを告白する者が、少なくとも事実上最善の人だ、というわけである。そして実際に、彼が他人から悪人だと思われることで正直に満足するのなら、まだしも彼は何らかの善への正しい通路にいるといえよう。しかし、永続的状態としての厭世主義は、たいていの場合、ただ破れ目からは哲学の外套(かいとう)にすぎず、その破れ目からは、人間の虚栄心が顔を覗かせている。この大食の怪物をたえず養うことなしには、とうてい幸福の目標に近づくことはできないのである。

 最も不幸な者は、単にある宗教的宗派に属することによって幸福を得ようとして、結局だまされたと感じて。ひどく失望する人たちである。こういう人たちは、今日なかなか多い。というのは、すべての宗教団体が、実際に果たしうる以上のことを約束し、同じ網であらゆる種類の魚を捕らえようとする傾向を持つからである。今は故人となったゲルツアー教授は、その著書のある個所でこう言っている、「たいていの教養人の神仕えは、ただ一週に一回最高の恵みを乞いに行く宮仕え同じである。人類に対してもまた、これと同様の宮仕えがある。つまり、人は時々人類に奉仕し、ーー彼等自身の表現に従えば、ーー社会のために善行するのは、残りの時間にそれだけ気軽に利己心を養うためにほかならない⭐️。」この方面におけるこのすぐれた人の豊富な経験に、われわれはあえて反対しようとは思わない。けれどもまた、たとえどんな「混乱した」方法にもせよ、人がみな神に仕え、少なくとも何らかの仕方で神に信頼するかぎり、神もまた決して人を見捨てないであろうということを、やはりわれわれは信ずる。そしてまた、きわめて貧弱な、あるいはいろいろ不純なものの混ざった宗教的努力でさえ、一時的でも正直にこれに縋りついていれば、やはりその人に、才智ある無神論⭐️⭐️よりも、より多くの幸福を与えるものだということをも、われわれは信ずる。しかし、このような「神の寛容のもとに歩む」単純な人たちの特権は、もちろんより一層の見識を備えた人々までは及ばない。こういう人々は、キリスト教がすでに二千年来患っている不徹底の病いからこれを解放する、という義務を負うている。そして、教会のいろいろの形式や礼式や、あるいはま「宗教学」などに自ら満足しないという義務を負うている。ことに宗教学は、まだ誰をも幸福にしたことがないし、それを理解しない民族にはパンの代わりに石を与えるものである⭐️⭐️⭐️。

 ⭐️ 現代のもう一つの有名な説教者は、これについてこう言っている、「信仰は結局、愉快な省察に人を導くある教義の真理性を確信することだ、と考えている人たちがある。」これは実際、ずいぶん広く行われている見解である。これを徹底的に取り除くためには、こうした誤解を起こさせる「信仰」という言葉を、「信頼」という言葉に代えるべきでだろう。信頼がどういうものであるかは、誰でもよく知っている。ところが、「信頼の概念」については、大掛かりな神学的説明が書かれねばならない。とにかく、これに関する古典的な定義は、すでに予言者ダニエル(ダニエル書)三の十七・十八に出ている。これはおそらくキリスト自身も読んだであろう。それはキリスト教よりも古いのである。

 ⭐️⭐️ 才智ある人であって、なお倫理的な世界秩序を信じ得ない人は、たいがい、恐ろしいことには、傲慢(ギリシア語のヒブリス、これは神と人とに嫌われるものである)と、深い意気消沈との間に動揺している。ただ自分にのみ頼る人の心は、数千年前に言われたと同様に、今日もなお「傲慢であると同時に臆病なもの」である。

 ⭐️⭐️⭐️ それではこれをどうしたらよいか、われわれは今それを論じようとは思わない。おそらくそれはだいたい、キリスト教を新たに「単純化」することによってなされるであろう。そのためには、ほとんどキリスト自身の言葉以外に面倒な教理を必要としない。キリストの言葉は、あらゆる場合に、完全に適用することができる。ただ必要なことは、キリストの言葉を常に真実な、実行され得る真理と認めることである。ところが、それは今日ではほとんど行われていない。ともかくもこれがーーほかの一切をしばらくおいてーー各人がそれぞれ自己の宗教的確信に到達する最も容易な道である。なぜなら、キリストの言葉は、まことの霊として、さながら生けるもののごとく直接に人の心に働きかけるという特性を持つからである。この生けるもののごとく働きかけるという性質が、その程度こそ違え、単に宗教上の教養を積んだ、あるいは学問をした人と、霊智豊かな、天才ある人とを区別するものである。

 

 このような事情である限り、幸福へのこの道もまた、ついに幻滅に満ちた道である。しかもこの幻滅は、人が通常、それを自分にも他人にもあえて告白しないから、一向に軽くならない。それというのも、この地点からもはや、平和と幸福とに帰ってゆく道はまったく見つからないからである。

 

 以上述べてきたところは、これにさまで重要でない幾らかの修正を加え、またその二、三を結合すれば、歴史あって以来、人類がそれによって幸福を求めてきたところの道である。たとえわれわれは、歴史のうちにそれらの道を認めないとしても、われわれは皆、自らの人生経験によって多かれ少なかれそれを知ることができるだろう。しかし人間は、この道では遂に幸福を見出せなかったのである。』

 

 

             清秋記: