ヒルティ、『幸福論①』127頁: | 真田清秋のブログ

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  『つまり、クリンガーは「世を渡る」というのは、最後に勝利を収める、あるいは大体から見て勝利を収めることである。たえず成功するということは、ただ臆病者にとってのみ必要である。いな、我々はさらに一歩進めて、こういうことができる。すなわち、事柄でものが重大な意義あるものである場合、最大の成功の秘密は不成功にある、と。最も大きな魅力をもち、長く全国民の間に思い出を残すような人々は、決して成功によってこのような偉大な人生の目標に到達したのではない。シーザーやナポレオンにしても、もしもプルータスがなく、ワルテルローの敗戦やセントヘレナ島がなかったなら、たんに一人の暴君として歴史に伝えられたであろう。オルレアンの少女も彼女の殉難がなかったなら、一人のありふれた活發な乙女にすぎなかったであろうし、ハンニバルもカルタゴの戦いに勝っていたなら、鼻持ちならぬ人間であったろう。スラ将軍や、アウグスツス皇帝は、ローマ史上で最も成功をした人たちであるが、その伝記を読む者は内心に嫌悪の気持ちを押されることができない。ワシントンは最も人気のある英雄とはならなかった。ロバート・りー将軍⭐️は、後世の歴史において名誉に包まれて輝いているが、、ユリッセス・将軍はそれを持たない。またアブラハム・リンカーンが死後あのように敬愛されたのも、その悲劇的な最後のためである。イギリスのチャールズ一世のような裏切り者が、今日なお多くの人々に敬愛されている一方、近代史上もっとも英雄的な人物であったクリンウェルはかえって憎まれている。もし後者が弾頭台の上に倒れ、前者が成功を死んだとすれば、この役割は逆になったであろう。皇帝フリードリヒ三世の生涯もその一例である。そして将来、現代よりもより良い時代になったなら、それはなお一層よい例となるであろう⭐️⭐️。

 このような実例の中で、最大のものは、キリストの十字架である。それは当時の死刑台を、全世界のために名誉の印としたし、実にローマ世界帝国さえも、これのために没落したのである。このキリスト教の比類ない成功は、(神学的でなく単に人間的に解釈しても)当時の学者がもしこの教義を承認していたら、それが可能であろうとは考えられないことだ。

 ⭐️ アメリカ南北戦争の時の南軍の将軍。敗北して北軍の将軍に降服したが、その人格の高潔さのために、国民の尊敬を受けて、後の大学総長となった。(訳者注)

 ⭐️⭐️ 精神の非常に高い人が、不成功のためだけで精神的に駄目になったということは滅多にない。ーー少なくとも我々は、そのような実例をまた見たことはないーー。しかし、あまりに早く成功したり、あまりにも調子よく成功したために駄目になる例は無数にある。むしろ人間のの本性そのものが、永遠の幸福に反抗する。それゆえ、ヘーゲルは正当にもこう言っている。個人的な幸福は性情の深い人にとっては、常になんらかの哀愁と結びついている。これは、幸福が完全に正しいものでないことを暗示する、と。だから、相対的に言って最も幸福な人とは、個人的な利己心でなく、ある偉大な思想に自分をぶち込む人で、次に幸福な人は、クリンガーのように、穏健な人である。後者は、自分の力のおよび限の成功を収めるが、前者は幸福であるためには成功を必要としない。

 非常に幸福な人々については、その普通の善良さえも、我々はほとんど本能的に疑うのだが、この感情は確かに正しい。これを、現代のある有名な人は次のような言葉で言い表している。「苦難なしにはわれわれの善はすべて花に過ぎない。苦難あって初めてそれは熟した実となり、外観が実質となるのである。」』

 

 

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