カールヒルティ、「幸福論①」129頁より: | 真田清秋のブログ

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 『人生の真の目的にはすべて、このような不成功が多少とも付きまとうものだ。だから、若い読者諸君よ、あなたが日常の平凡な生活のうちに自分の一生を失うまいとすれば、このことを覚悟しなければならない。しかし、そのような不運は、もはや不幸というありふれた名を持つものではなく、むしろ「十字架」という薔薇(いばら)の冠を抱いているのであるが、これは確かに一つの冠であって、王冠としての性質を失うものではない⭐️。

 ⭐️  才能豊かなタレーラン候が残した数多くの逸話の中で、人間というものに対する彼の正しい理解を最もよく表しているのは、次のようなものである。ある新興宗教の創始者ーーたぶん「神人愛の道」を始めて唱えたラレビエール・レポーだったと思うーーが、自分の教義の体系を詳しく述べて、これをもってキリスト教に変えたいというので、彼の賛成を求めた。すると、タレーランはこう言った、しごく、結構であるが、新しい教義が徹底的な成功をおさめるにはなお一事が欠けているようだ、「キリスト教の創始者はその教えのために十字架についたが、あなたも是非そうなさるようお勧めする。」

 当時、理想主義を信奉する人は、信仰者からも俗人からも、、教会からも国家からも、ひとしく大いに軽んじられた。その後、理想主義はこの完全な汚辱から少しづつ立ち直ってきた。国家や教会における真の団結、真のヒューマニズムはすべて、それらが内的な支えを得ようとする限り、是非ともこの理想主義をよりどころとせざるを得ないのである。だからこそ、さして気にするほどのものではない。というのは、中途半端なキリスト教が世に広まって、多くの善良な人々がこれに迷わされない限り、その企ては成功しないからである。』

 

                     清秋記: