ご縁に感謝 西国観音巡礼 道中記⑦-2 穴太寺納札 | 福来野のブログ

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 西国観音巡礼を始めてから興味を持った「江戸時代の巡礼札」、

二日目(6月13日)にお参りした丹波国の第21番札所にも残されて

いる。  外陣の高い所に掲げられた奉納額、駒札の納札などの

撮影にニコン一眼の重いカメラ持参が役立った。

外陣のみの撮影、ブログ記載には許可を頂いています。

 

 外陣の柱に残された束になった納札、残された詳細は分から

ないが20枚ほどあった。巡礼、順禮のどちらにしても諸事情が

あって、この穴太寺で旅を終えたのだろうと推察した。

 

奉納された懸仏のある左手、長方形の奉納額にはこんな記載。

御詠歌が記載され、文政十四辛月正月との銘。辛月??

(江戸時代の暦では、1831年 天保二年辛卯に一致する)

願主の住所は大阪南堀江四丁目。

(堀江と読んで気付いたのは、明治38年大石順教尼の悲劇。)

 

中央の駒札には、奉納 西國三十三所順拝 向日市 同行八人。

向日市は京都府の南西にある市で、1972年市制施行。

1889年3月までは若者の巡礼が盛んだった「物集女村」だった。

順拝とある事から札所の番号順に一番から巡礼の旅をしていたと、

福来野は推察した。

 

懸仏の左、縦長の奉納額には丹波國穴穂寺とある。

 

横長の奉納額、奉納年が「天保十六甲辰」とあり、国立天文台

所蔵の「江戸時代の暦」によれば、1845年「弘化2年」。

 

左の奉納額、嘉永七寅閏七月とある。

 

嘉永三庚戌年五月の銘がある奉納額。1850年、江戸時代末期。

 

なぜ第19番札所の奉納額がここ穴太寺にあるのだろう。

知ってどうすると言うわけではないが、興味あるな。

右上の額にある一条革堂とは、一条天皇の勅願によって堂宇が

建立されたので、当時は一条革堂と呼ばれていた。

 

ご縁に感謝 西国観音巡礼 道中記⑧ 三室戸寺に続きます。