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心理コンサルタントの白瀧です。
さて、悲しみは、一般的には不快な感情とされています。
しかし、私たちは、悲しい映画やドラマ、あるいは悲しい音楽を鑑賞し、悲しみの中に敢えて浸ろうとします。
そして、大いに涙を流した後は、スッキリ。
なんて方も多いのではないでしょうか。
不快な感情に敢えて浸る意味は何なのか?
そんなことに答えを出そうとした最新の研究があります。
研究では、既存の曲から一部を抜き出し、通常悲しいとされる短調曲で構成された30秒程度の曲にアレンジして、18歳~46歳までの男女44人に聴いてもらいます。
そして、悲しい、愛おしい、浮かれた、圧倒されたなど62の用語を用い、
「この曲が一般的にどのような音楽か?」を判断してもらうとともに、
「実際にどのような感情が自分に生じたか?」
をも回答してもらいました。
その結果、聴いた音楽が悲しい音楽だと判断することと、音楽を聴いて実際に悲しくなるかは別のことであることを示しました。
被験者たちは、悲しい音楽を聴いて、それが悲しいと判断するほど実際には悲しみを感じておらず、ロマンチックと判断する以上にロマンチックな感情を抱いていることが分かったということです。
つまり、悲しい音楽は一般的に過剰に悲しいと判断するものの、自分自身はほどよい悲しみとともに心地よさも感じていることを示しているということらしいのです。
悲しい音楽はロマンチックな感情ももたらす。
このことから、『代理感情』という存在を提案しています。
すなわち、音楽など芸術を鑑賞している場合、それは、自分自身に対して直接的な害が及ぶことのない安全な状況です。
それゆえ、安心して悲しい音楽などから悲しみを代理的に体験し、それを楽しむことができるのではないか、と結論しています。
しかし、それならば、なぜ、私たちは、悲しみという不快な感情を体験することが楽しみになるのか、という疑問が出てきます。
一般的に、他人の悲しみを理解できる共感能力は、協力的な社会を築くためには必要で価値のある能力です。
そして、人間は、常に優越性を追求する生き物です。
そこに、悲しみを代理的に体験し、それを楽しむということのヒントがあるように思います。
最後まで読んで頂き、ありがとうございました。
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