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心理コンサルタントの白瀧です。
さて、アドラーは、人間の性格について次のように述べています。
われわれは性格というものを、人生の諸課題と取り組もうとする人間の心の一定の表現形式の現れと理解する。
それゆえ「性格」とは、ひとつの社会的概念である。
われわれは、ひとりの人間とまわりの世界との関連を考慮するときにのみ、性格特徴について語りうる。
(中略)性格とは、ひとりの人間が自分のまわりの世界にどのように対するかという、その仕方、様式であり、その人の精神的立場であり、また評価を求める彼の衝動が自分の共同体感覚と結びつきつつ貫徹される導線なのである。
そして、こう指摘しています。
すでに確認されたことであるが、ひとりの人間の振舞はすべて彼が立てる目標によって確定されている。
(中略)この目標は、その人間の世界観に作用を及ぼし、その人の生き方やライフスタイルに影響を与え、その人の表現活動を導いていく。
それゆえ性格特徴とは、ひとりの人間の活動の線の外的な現象形式にすぎない。
そして、さらに続きます。
例えば、ある子どもが怠惰であるとしても、それは決して生まれつきのものではなく、この性格が彼にとっては、人生の重荷を軽くし、また自分の価値を主張するために適した手段であると思われるからなのである。
(中略)彼は常に生まれつきの欠陥を引き合いに出せるし、そうすれば自分の内的な価値が傷つけられないように思えるのである。
そのような自己観察が行きつく結果はいつもだいたい次のようなものである。
「もし私がこういう欠陥を持っていなかったなら、私の能力は輝かしく伸びることができたであろうが、残念ながら私にはこういう欠陥がある」と。
他方、限りなく力を求める努力をして、まわりの者たちと絶えず争いを惹き起こしているような人は、そのような争いに必要だと思われるような性格特徴、つまり、名誉心とか嫉妬とか不信とかを増大させるであろう。
もし私たちが無人島でたった一人で生活をしていたとすれば、果たして私たちは、怠惰という性格を持ち得るでしょうか。
あるいは、名誉心であるとか、嫉妬であるとか、不信などという性格特徴を持つことに何か意味があるでしょうか。
このように考えると、私たちが、人それぞれ持っているさまざまな性格特徴が、果たして生得的なものであり変えることができないものであるのかどうか、そのことに対して大いに疑問が生じてくるのではないでしょうか。
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