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心理コンサルタントの白瀧です。
「理性があるがゆえに、すべての人間は、尊厳と尊敬に値する」。
そう言ったのはカントです。
また、マキアヴェリは、『君主論』の中で、
「君主は、人間と野獣を使い分けなければならない」
と書いています。
野獣とは、人間の残虐性を意味しています。
人は、他人に対し、自らの命を賭してまで献身的になることもできれば、目を覆いたくなるほど残虐な姿を見せることもできます。
人間の持つこの二面性の意味することとは何なのでしょうか。
例えば、現在のエジプトやシリアの情勢は、人の残虐性の象徴とも言えます。
否、日本でさえも、人を人とも思わないような卑劣で残虐な犯罪が頻発しています。
しかし、一方で、どんなに残虐な犯罪者でも、自分の身内や仲間などには、思いもかけないほど優しい一面を垣間見せることがあります。
つまり、人は、顔の見える相手には残虐にはなれないのです。
人が残虐になれるのは、常に顔の見えない相手に対してなのです。
顔の見えない相手とは、要するに、自らの関心の及ばない相手のことです。
それは、自分の身内以外の人であったり、仲間以外の人であったり、あるいは、他の地域の人々や他の国の人々であったりします。
私たちは、他人の行動を理解することができます。
しかし、他人の行動を理解することと、他人に関心を持つことは大いに違います。
他人の行動を理解するのは、ほとんど無意識的な行為であり、これは、人間だけに限ったことではありません。
動物も、他の動物の行動を理解することができます。
それゆえ、彼らは、獲物を襲うことができ、また、捕食者から逃れることができるのです。
ただ、私たち人間は、他人に関心を持つことができます。
人間だけが、相手の人のことを考え、その行動の意味するところや、その人の思考や感情に関心を持つことができるのです。
そして、これが極めて人間らしい行為であるのは、この行為が意識的な行為だからです。
人は、意識的に考えなければ、相手に関心を持つことはできません。
そして、相手に関心を持てば、残虐になることはできません。
親が、躾けと称して我が子に残虐な行為を働けるとしたら、それは、言うことを聞かない子どもに関心があるのではなく、言うことを聞かせたいという自分にしか関心がないからです。
また、恨みを抱く相手の苦しむ顔が見たいというのも、苦しむ相手に関心があるのではなく、苦しむ顔が見たいという自分にしか関心がないのです。
残虐性は一時的な解決策にしかならないということを、マキアヴェリも認めています。
残虐性は、ただ負の連鎖を生み出すだけなのです。
私たち人間は、周囲の人たちに対する関心を広げれば広げるほど、人に対して優しく貢献的になれます。
世界中の人々が、自国の利益ばかりに囚われるのではなく、他の国の人々にも大いに関心の輪を広げることができれば、世界的な紛争をもっと防ぐことができるのではないでしょうか。
そして、それができるのは、私たち人間だけなのです。
【参考文献】
- 新訳 君主論 (中公文庫BIBLIO)/中央公論新社
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