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ふくばです。
ある問題が起こったとき、ついつい相手を責めてしまうのが人間の脳のシステムのようです。
つまり、人は、ほとんど直感的に、判断して、行動をしているということです。
私ならそんなことはしない!私という常識で生きているということです。
これは無意識的な行為なのです。
その私の常識(考え)と相手や世間の常識(考え)とが、そこそこ合っている場合が、それなりにあるため、それで問題がない場合もあります。
しかし、この直感的な行為(無意識的)、つまり私の常識で、問題になるケースもあります。
この問題の解は、常に、相手が非常識だと責めて終わるということになります。
人は、”考える”ということが、負担であり、疲れやすいため、考えないで生きてしまうのですが、
この”考える”ということが人間らしさなのです。
つまり、この”考える”ということができることが、人間としての持っている能力を生かしているという状態なのです。
この”考える”とは、意識、共感、創造、をフルに使いことであり、気づきへの入口なのです。
相手を責める前に、相手の立場になって、考える。
要するに意識、共感、創造をフルに働かせて考えると以外に問題が問題でなかったり、自分自身の問題に気づくものです。
私が20代のころは、携帯電話はありませんでした。
当然、待ち合わせに遅れたり、あるいは、待ち合わせ時間や場所を勘違いしてしまうなどの場合、出会わずに終わるのですが、そんなケールはありませんでした。
それなりに対応していたのです。
それは、もし、相手にアクシデントがあった場合(30分以上遅るなど)、”どこどこにいる、あるはお店に先に行っているとかアクシデントの対応もすでに決めてから約束をしていたからです。
今は、約束が曖昧でも、電話やメールで連絡ができるので、”何時にどこどこで、また電話する”という程度の約束でも十分にことがすむため、アクシンデントに対応することを考えなくてもすむため、相手の立場に、十分な想像を働かせずにすむ弊害(つまり、考えない)があるように思われます。
坂本龍馬の脱藩も、当時の状況から想像を働かせると
人間をやめますか?というくらいとんでもないこと(想像を超えたものであったに違いないでしょう)
リンカーンの奴隷解放の法律もしかり、
今、自分が当たり前であるからという視点で物事をみると判断を誤ります。
今、自分が想像を働かしても常識だと思っていることを、本質を見て、変えることができるだろうか?
たとえば、会社のシステムがおかしいと感じ、変える行動をしているだろうか?
食べるものがいっぱい溢れている社会で、食べないこと。
それが我慢です。
そもそも食べるものがないので、我慢するのとは、意味合いが違います。
近頃の若い奴は、我慢が足りないのか?
相手の立場を”十分に考えて”発言すれば、見えていないものが、見えていなかったことに気づくでしょう。
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