今までの内容から、こんなことがわかり、対応の仕方がわかります。
例えば、子どもに、「何度も注意しても、言うことを聞かない」という場合があります。
親としても、対応の仕方に困り、嫌になるでしょう。
もし、何度も注意して、言うことも聞かないならば、心理学的な思考を活かして、対応を考えてみるのもいいでしょう。
こういう場合は、親の視点(注意する側)ではなく、子どもの視点から見れば、動因がよくわかります。
子どもは、親から注意されるために、言うことを聞かないのです。
つまり、そういう親子関係ができあがっているということです。
漫才で言えば、ボケと突っ込みという関係に似ています。
ボケがボケなかったり、突っ込みが突っ込まなければ、漫才は終了します。
だから、ボケが突っ込めば、雰囲気が変わります。
やらない⇒注意する⇒やらない⇒注意する⇒やらない。と成るわけです。無意識的なので、全く気づきませんが、対応を変えると、時間とともに、人間関係の構成が変わります。
漫才で言えば、立場が変わるのです。
例えば、子どもが親から言われていたことを言われなくてもするようになれば、
喜び⇒やる⇒喜ぶ⇒やる⇒喜ぶ。と変わるわけです。
子どもの中心的な目的は、親の興味をひくことです。(無意識的ですから、全く気づきません)
親は、喜んだりすることより、不快なこと、腹が立つこと、などの方に、ついつい反応しています。
人は、相手の不適切な行動に対して、過剰に反応したくなるのです。
それは、人は、不快なことから避けたいからです。
だから、親が過剰に反応した方に、子どもの行為は偏っていきます。
わかりやすいように説明すると、
例えば、物理的に注意できる環境にないことを考えてみましょう。子どもに注意ができないのです。
つまり、親が何度も注意している”その行為”を
親の言うことを聞かないのではなく、その子が”その行為”についての態度の問題になります。
その子は、その行為をしないで生きることを選択するか?
あるいは、その行為をしないでも、問題ないのかもしれません(親の心配しすぎで、よけいなことだったかもしれないわけです)
遅かれ早かれ、その行動をする、しないを選択するでしょう。
それが、生きるという意味だからです。
これが、主体者が主体的に生きる態度であり、”自立”です。
注意をやめたら、最初は、どんどん悪化します。
しかし、人間関係を変えるためには、そこを乗り越えなければなりません。
それは、ビンの中で、燃えているローソクに、ビンにフタをした状態になります。
ビンの中の酸素が無くなり、やがて、ろうそくの火が消えるように、親からの注意というエネルギーの供給がなくなれば、子どもは不適切な反応をしなくなります。
主体者が、それを、することなのか?しないことなのか?
を考えることを身につけ、その決断に責任をとること。これが、自立への教育です。
注意は、一回で十分です。親からの意見を言えば、わかります。
出来ない時に反応するのではなく、出来た時に反応することを意識することで、人間関係の構成が変わります。
何度注意されても、では、自立する訓練ができません。
つまり、相手は、ただ反応をして、行動する不適切な習慣が身につくだけです。